
脚本の魔術師として世界を席巻したジュン・ロブレス・ラナ監督の新作『アバウトアス・バット・ノット・アバウトアス』が2026年1月17日よりシアター・イメージフォーラムほか全国公開となる。
この度、ジュン・ロブレス・ラナ監督と前東京国際映画祭ディレクターの矢田部吉彦さんの対談形式によるオフィシャル・インタビューが到着した。
矢田部吉彦:コロナ禍は今や少し遠い昔のように思えてきましたけれども、フィリピンでのロックダウンは全く外に出れない大変な時代でしたか?
ジュン・ロブレス・ラナ監督:フィリピンのロックダウンは世界で1番長い時代とされていました。非常に取り締まりが厳しく、家から出るためには、どこまで移動していいのかが書いてあるパスのようなものをもらわないといけない状態でした。本作のひとつ前に撮ったのが『ビッグ・ナイト』だったのですが、その時が初めてフィリピンで感染者が出た頃だったんです。その後、実際に私たちの撮影クルーも罹患して、撮影をすることで人々を危険に晒したくないという思いがまずありました。彼らの健康を守るために非常に気を配りました。この時の撮影っていうのは非常に厳しくて難しいものでしたね。この物語はパンデミックでロックダウン中に考えていたものですが、このような話を書くつもりは全くなかったんです。
矢田部:パンデミックの最中に作られた作品をたくさん見ましたが、僕はこの作品が最も面白くて、完成度が高いと思いました。どのようなプロセスでこの物語を思いついたんですか?
監督:実は最初は、映画を撮るつもりは全くなかったんです。コロナ禍は本当に行動を規制されていて、あれしちゃダメ、これしちゃダメっていうことばかりがたくさんありました。映画を撮るどころか、人が集まるということ自体が禁止されました。そういった行動をするためには、ものすごくややこしくていろんな規制のある状況でした。だから映画を作ることが非常に難しかったんです。なので、自分の個人的な気持ちを「日記」として記録するつもりで、物語を書き始めました。
フィリピンのロックダウンの時代の中でたくさんの人が亡くなり、同時に「麻薬戦争」と呼ばれるような時代が来て、たくさんの人が亡くなりました。そういう時代を迎える中で、自分が映画を作る人間として、いま起きていることや自分の個人的な気持ちを会話形式で書いていく中で、これは脚本にできるんじゃないかと思ったんです。そして、そうすることによって、フィリピンの現状を反映することができるとも感じました。例えば、実際にレストランに行って友人と会おうと思っても時間制限があったりします。その実際の状況を脚本に反映するうちに、2人の会話形式という形にたどり着いたんです。
矢田部:なるほど。そこからあの素晴らしいアイデアが思いつくなんて! その状況で映画として撮るには、登場人物も少ないほうが良くて、会話劇であれば撮れるだろうと思ったのでしょうか。登場人物は実際には3人いるけれど、画面に出てくるのは2人だけというアイデアが本当に素晴らしい。このアイデアを思いついたのはどんな背景が?
監督:1番最初に書き始めた時に、まず思いついたのがこのアイデアでした。そもそも「他者」に対する視点というものは、人によって違う。それを取り上げようと思いました。例えば兄弟であっても、同じ親に対する印象が違ったりするように、人に対する見方の違いというものを映画の中に反映させてみたかった。実際には見えないけれど、確かにそこに存在する「人」を描くことにしました。その人の想い出や経験、その経てきた人生のいろんな思いだとか経験が、また別の人にどういう影響を与えたか。そういうことを描こうと思ったんです。
矢田部:接する人によってキャラクターの印象が変わるということですが、最初は純朴に見えたランスがだんだん変化していく過程が素晴らしかったです。彼は成功に飢えている、いわゆる普通の若者なのか、それ以上のサイコパスなのか。どのような存在だと考えて作ったんですか?
監督:ランスは非常にたくさんのトラウマを持った若者です。人格形成をしていく中でいろんなことがあったため、自分自身が自分を理解できてないというような面を持っています。だから彼の中では注目をされるという承認欲求が必要でしたし、人から大事にされたいという想いが非常に強かった。だから彼は辛い経験の中から、早く何かしらの人にならなきゃいけないという焦りがあって、自分のやっていることが悪いことだと本人も気づいてないうちにやってしまう。そういう人間であって、決してサイコパスな人間ではない。言わば普通のフィリピン人だと思っています。ただ、彼の育ってきた環境によって、悪い方向に進まざるを得なかった。そんな環境の人間だと思ってます。
矢田部:エリックとランスのパワー・バランスが逆転していく家庭がスリリングで面白かったです。上の世代(エリック)の立場が弱くなってパワー・バランスが逆転するというこの構造自体には、旧世代に対する怒りとか対抗心とか、そういったあなたの想いが込められているのでしょうか?
監督:「別の世代間同士において理解がきちんと出来ていない」ということが、映画の中で非常に表現したかったことの1つでした。人々の結びつきや価値観、モラルやタブーに対する考え方はそれぞれの世代によって全く違ってきています。例えばランスがSNSで自分の動画を売るということは、彼にとっては生きていく方法の1つでしかありません。実際にそうやって暮らしている若者がいるのも事実で、それは彼らにとって生きていく糧として必要だからやっているに過ぎません。でもエリックの反応は全く違いました。彼らを理解することなくその行為を簡単に判断したり、「こうだ」と勝手にジャッジしてしまう。それがなぜその人にとって必要で、やらざるを得なかったのかということまで理解が及ばない、エリックのような世代があるんです。そういう答えがない世界を、私は映画人として、フィルム・メーカーとして見せたいと思いました。現実に起きていることに対して、世代が違うことで起きる理解の差がない世界にするには一体何が必要なのか。そういったことを考えるきっかけを、映画に描きたかったんです。

矢田部:エリックとマルコスとの会話で、マルコスはLGBTQ+コミュニティのためにも、誤解を招くようなことはするなとエリックに言いますよね。でも、エリックはもっと自分の気持ちに正直でありたいと答える。ラナ監督はどちらの立場なのでしょうか? あるいはこの会話自体があなたからの1つの問題提起となっているのでしょうか。
監督:二人が言っていることは両方とも価値のあることだと思います。ここで問題なのは、お互いを理解してないっていうことなんですよね。この2人はどちらも頭が良くて賢い人たちです。でも賢い人たちっていうのは、間違ったことに対して言い訳がうまいのものなので、いかにもそれが正しいことで間違ってないってことを説明してしまうんです。頭がいいばっかりに、お互いの話を結局聞かない。賢い人同士で話をして、自分のほうが合ってると主張するだけのような形になって、全く答えに近づけないという状況を生み出してしまいます。本来なら2人ともそれぞれの正しいポイントがあるんですが、問題はお互いの話を聞いていないことにあります。そのことで私はどちらが正しいかということも選べないと思いますし、この現状でどちらが傷ついたとか、どちらのほうが正しいとか間違ってるっていうのは言えません。本来であれば、お互いを理解し合い、お互いの話を聞くということが大事だったんだろうと思います。
矢田部:フィリピノ語で文章を書くことに言及するシーンがありますが、これはフィリピンの文化に対するラナ監督の特別な思いが込められていると受け止めて良いのでしょうか?
監督:そうですね。タガログ語と英語を映画の中で使うことを、映画の中では1つのテクニックとして使っています。この映画で話されている英語を交えた会話は、実際の学生たちが日常的に使っている会話です。私がフィリピン大学で英語を教えていた時も、まるでどこか違う世界にいるような気分になることがありました。実際、私たちはフィリピン人同士で話しているのにも関わらず、まるでアメリカから来たかのように英語で会話をすることがあります。ある時、「なんでそういうことをしてるんだろう?」と思いました。
今回のこの映画の中でも英語が多く出てきて、フィリピノ語はあまり使われていません。フィリピンの日常でも実際に英語を使う時というのは、何か隠し事をしてる時に使われます。そしてタガログ語で話す時は事実を語る時に使われているんです。つまりこの映画では隠し事が多いという状況を表してます。だからタガログ語で小説を書くということは、すごく大きな意味を持っていて、フィリピノ語を使うことで価値を与えたかった。英語を上手に話す人々は、それだけで周囲から知識があって金持ちだと思われたり、尊敬を得たりするんです。そんな環境の中で英語で小説を書いてたマルコスが、新たにフィリピノ語を使うということは、フィリピン人がフィリピノ語を使うということに意味があるんです。
矢田部:この作品で面白かったひとつのポイントは、90分という時間の表現。レストランで90分の時間制限を告げられて、同じく作品も90分。物語の時間と映画の時間が一緒というのが、とても上手いし面白い。パンデミック中に撮ったこの作品は、あなたにとっても特別な1本ですか?
監督:そうですね。この映画は自分にとってすごくスペシャルな作品だし、個人的な想いも入っています。ロックダウン中に撮影できたことがまるで奇跡のようでもありました。いつもは脚本を書くのにも時間をかけます。自分の中でも特別な一本です。
ジュン・ロブレス・ラナ Jun Robles Lana
劇作家、脚本家、プロデューサー、映画監督。脚本デビュー作『SA PUSOD NG DAGAT』(英題「In The Navel of The Sea」| 監督:マリルー・ディアス=アバヤ | 1998)により、フィリピンで最も権威ある文学賞「パランカ賞」の殿堂入りを最年少で果たす。また同作はベルリン国際映画祭パノラマ部門でワールドプレミア上映された。その後も脚本家としてさまざまな監督と共同し、フィリピン最大のテレビ局GMAネットワークのドラマ担当クリエイティブ・ディレクターに就任。2012年には『ブワカウ』を製作・監督し、シネマラヤ映画祭のオープニングを飾り、トロント、ニューヨークなどの映画祭で高い評価を受けた。本作は同年の米国アカデミー賞®フィリピン代表作品に選ばれ、 香港のアジア映画賞でエディ・ガルシアの最優秀賞を受賞。本作は第25回東京国際映画祭でスペシャルメンションを受けている。その後、『ある理髪師の物語』(2014)は香港、東京、マドリードの映画祭で受賞。ウディネ極東映画祭でフィリピンで初の最優秀女優賞を受賞、また第26回東京国際映画祭で最優秀女優賞を受賞した。『SHADOW BEHIND THE MOON』(2014)はウラジオストク 国際映画祭で最優秀監督、最優秀女優賞、フィリップス批評家賞、NETPACベストアジア映画を受賞、またインドのケララ国際映画祭でも最優秀監督を受賞。『KALEL,15』はタリンとローマで上映され、特にタリン・ブラックナイト映画祭では最優秀監督賞を受賞。またハーレム国際映画祭でも最優秀男優賞(イライジャ・カンラス)を受賞した。 日本でも劇場公開された『ダイ・ビューティフル』(2016)は東京国際映画祭2016で観客賞と最優秀男優賞のダブル受賞を果たし、インドのケララでも上映。2016年のフィリピン映画で最も興行収入を上げた作品のひとつとなった。
本作『アバウトアス・バット・ノット・アバウトアス』はタリン・ブラックナイツ映画祭で批評家賞(Critics Picks Best Film)を受賞し、シドニーのファンタスポルト映画祭でも上映。最新作ではフィリピン初のAmazonオリジナル映画『TEN LITTLE MISTRESSES』を監督している。

矢田部吉彦(前東京国際映画祭ディレクター)
フランス・パリ生まれ。2000年より映画配給と宣伝を手がけ、ドキュメンタリー映画製作やフランス映画祭の運営にも携わる。02年から東京国際映画祭に19年間在籍し、上映作品を選定するプログラミング・ディレクターを担当。21年に独立後、2022年3月にウクライナ映画人支援上映会を実施、さらに内外の映画祭や映画賞のアドバイザー業務など、幅広く活動中。
公開表記
配給:サムワンズガーデン
2026年1月17日(土) シアター・イメージフォーラム他にて全国順次公開
(オフィシャル素材提供)





