生の象徴である身体部位にはボカシが入れられるのに、山積みの死体を見せても異議を唱えられないことに怒りを覚える
それぞれの欲望に憑かれた三世代の数奇な人生を風刺たっぷりに描いた、おぞましくも美しいハンガリアン叙事詩『タクシデルミア ある剥製師の遺言』。2007年アカデミー賞外国語映画部門ハンガリー映画代表にも選ばれた本作を生み出した恐るべき若手監督、パールフィ・ジョルジ監督が、あらゆるタブーを超え、人間の身体表現に挑んだ理由を語った。
パールフィ・ジョルジ監督
1974年、ハンガリー生まれ。1995年に自主制作映画・ビデオ映画祭において特別最優秀賞を受賞。ブダペストの映画・演劇アカデミーで学び、卒業生とともに、NPO法人Madzag Filmと制作会社Katapult Filmを設立。
初の長編映画『ハックル』(2002年)でヨーロッパ映画賞新人賞、サンセバスチャン国際映画祭最優秀新人監督特別賞など、20もの賞を受賞。同作はアカデミー賞ハンガリー代表作品となった。
長編第2作目となる『タクシデルミア ある剥製師の遺言』では、妻であるゾーフィア・ルットカイと脚本を手がけ、2004年サンダンスNHK国際映像作家賞ヨーロッパ映画部門賞を受賞。また、2006年カンヌ国際映画祭・ある視点部門でも受賞している。
日本は初めてですか?
パールフィ・ジョルジ監督:3年ほど前、ハンガリー映画祭で『ハックル』が上映されたときに初めて来日したんだ。妻は今回が初めてだよ。
それまで抱いていたイメージと実際に見た日本は違っていましたか?
パールフィ・ジョルジ監督:違いはたくさんあった。2回目となるとさすがにいろいろと分かってきたけど、まだ慣れないことはあるね。まず、道路が右側通行であること。あと、便座が温かいことにも慣れない(笑)。ウォッシュレット? あれはいいね~(笑)。
自分の基準で物事を見ると、いつも面白い体験ができるんだけど、渋谷や新宿は僕の日本のイメージ通りだった。ただ、実際に来てみると、今まで抱いていたイメージよりももっと大切なことが身の回りで見えてくるおかげで尺度も変わってくるので、やっぱり違うと感じるようになる。ちょっと分かりにくいと思うので別の例で説明すると、例えばミケランジェロのピエタ像を実際に見に行く前に、いろいろな本などで見ていて、かなり大きいものだと想像していたのに、実際に見てみるとそこまで大きくなかったんだ。大きくないということで落胆する気持ちは確かにあったけど、それまでに見たどんな写真や資料よりも、実物のほうがどれだけ素晴らしいかという思いが湧き上がってきた。そういうことを言いたかったんだ。
実物、実体験に勝るものはない、と?
パールフィ・ジョルジ監督:そういうことだね。だから、それまで自分が想像の中で創り上げてきたものが壊れてしまったという意味での落胆はあるんだけど、その代わりに、本当に見たことによる高揚感が生まれてくる。それがまた、僕にとっては素晴らしい体験になるんだ。
たまたま今朝、新聞で読んだのですが、ハンガリーの民話は「あったことか、なかったことか」という前置きで始まるそうですね? 『タクシデルミア』もまさに、そういう民話的な語り口を引き継いでいる気がしたのですが。
パールフィ・ジョルジ監督:とても良いところに気づいていただけたね。確かにその通りだ。この映画はまさに、本当に起きたことなのか、起きていなかったことなのか……ということを描いている。
正直、時に直視できないグロテスクなイメージに満ちていると感じましたが、アイデアやイメージは鮮烈で、ある種の美しさもあり目が離せない映像でした。観終わった後はしばらく、ものが食べられませんでしたが(笑)。そういった反応を引き起こすだろうとは予想されていましたか?
パールフィ・ジョルジ監督:ハイ(笑)。この映画では身体について描くと決めたんだ。そうすると、身体のさまざまな部位の機能について触れることになる。そこで僕たちもすぐに、普通映画の中では表現しないようなさまざまなタブーに直面することになると気づいた。人間は排尿するし、幸運な場合には毎日排便もし、汗もかくし涎も垂らすし、匂い(臭い)も発する。それは良い匂いの場合もあるし、悪い臭いの場合もある。興味深いことに、こうしたことは人間の最も自然な身体活動であるにもかかわらず、デオドラントを使って臭いを抑えたり、トイレで音楽を流して排尿音を聞こえなくしたりなど、自分を小さな箱の中に囲って、外に出さないようにしているね。でも、僕たちのコンセプトを率直に語るためには、それらを隠すことはできない。全てを覆い隠さずに表現すべきだと考えたんだ。
僕が不思議に思い、怒りさえ覚えるのは、生の象徴であり、あるいは愛し合う二人の象徴にもなり得る、屹立するペニスを画面に出すことができないのに対して、死を直接的に表す山積みになった死体や銃弾で砕かれた頭などは、映画の中で頻繁に出てくることだ。これは一体どういうことなのだろう。本来は逆であるべきなのではないのかな?
ゾーフィア・ルットカイ:私が感じた疑問は、体から出てくるものを、何故そこまで隠さなければいけないのかということね。一方で、精神から出てくる感情や思想のほうは、もっとずっと醜い表現でも映画の中では許されているというのに。
日本でもボカシが入っている部分があって、完全に見せきれないのは残念なことですね。
ゾーフィア・ルットカイ:ただ、ハンガリーでも気分が悪くなったり、刺激が強すぎると言う方たちもいるわ。
パールフィ・ジョルジ監督:日本にはそういう法律があるわけだから、それを尊重するべきだし、ボカシが入ることも仕方ないと思っている。法律がなくても、ハンガリーでもああいうシーンはボカすべきだと考える人たちは多いし、それは他の国々でも同様だと思う。問題なのは、そういうところをボカすことには同意する人たちがいて、実際にボカシが入っていたりするのに、人が死ぬ瞬間に関しては、何故ボカそうという動きがないのかということだよ。
この映画は思考させられるよりも、直接的に感覚に触れて、肉体的な反応を引き起こすというところがありますね。登場する三世代に共通しているのは“欲望”だと思いますが、それが監督の描きたかったことなのでしょうか?
パールフィ・ジョルジ監督:そう、少なくとも誰にでも欲望というものはあるからね。ただ、何に対しての欲望かというのが、この三世代では異なっていて、最初は“愛”、あるいは“性愛”への欲望であり、二代目は“成功”、三代目は“不死なるもの”への欲望だと、僕たちは考えたんだ。
例えばこの映画が、社会主義体制、資本主義体制に対する風刺と見られるとしたら、どうお感じになりますか?
パールフィ・ジョルジ監督:確かにそれはあるのだから、いいと思うよ。
例えとして、ある映画の一シーンについて話そう。強盗に入られて家には火をつけられ、家族も含め何もかも奪われてしまった男の家に友人が行ってみると、その男も喉を切られてもうすぐ死にそうな状態でいたんだ。友人が「痛くないか?」と聞くと、男は「いや、大丈夫。笑わない限りね」と答えたんだよ。…………東欧独特のジョークだと言えるね(笑)。日本の方にはこれのどこがおかしいのか分かりにくいかもしれないけど、東欧ではみんなが笑えるジョークなんだ。
つまり、そうしたジョークと同じエッセンスが、この映画の中にはあるということですね?
パールフィ・ジョルジ監督:そう。こうしたアイロニーや風刺を、僕がどのように扱っているかを説明するための一つの例としてお話ししたんだ。
ハンガリーが民主化されたとき、監督はティーンエイジャーだったと思いますが、そうした時代の変動はご自身にも大きな影響を与えましたか?
パールフィ・ジョルジ監督:ハンガリーの体制転換というのは、社会党による穏便な独裁制から民主主義に則った資本主義に替わったわけだけど、正直僕たちの世代というのは、社会に出る前に体制転換が起こったので、変わった後の社会というのは僕たちにとっては変化ではなく、そうあるものとしてすんなり受け入れられたんだ。僕たちよりも4~5歳上の人たち、つまりちょうど社会に出たばかりの人たちはその体制転換に非常にショックを受けて、新しい社会に順応するのにも苦労したと聞いているよ。
少し不思議だったのは、登場人物たちからあまり感情が伝わってこなかったことです。それは意図したことだったのですか?
パールフィ・ジョルジ監督:登場人物たちの感情を感じたいという観客の思いは僕も理解できるんだけど、今回は何しろ30分毎に主役が変わる構成になっているし、全てを入れることは不可能だったので、どれを優先させるかという問題があったんだ。そういう意味で、意識的に登場人物たちとある種の距離感を保ったまま彼らを描く形をとることによって、観客が登場人物たちに感情移入することによって近づくのではなく、彼らの嗜好や意思をより明晰に見つめることができるのではないかと考えた。ただ、感情を感じたいという欲求も良く理解できるので、これについてはもう少し考えて創るべきだったかもしれない。とにかく今回は、そうしたことを期待していただかないほうがいいね(笑)。
「“空間”が大切な者もいれば、“時”が大切な者もいる」と映画の中で語っていましたが、監督にとって最も大切なものは?
パールフィ・ジョルジ監督:今回登場している人たちの中で一番僕に近いのはおそらく、最後のラヨシュだと思う。クリエーターだということも共通している。ということは、僕にとって“時”こそが大切なものなのかもしれない。人は死ぬことが定められていて、その中で何を残すかが重要だと思うから。
ただ、こうして2作目を撮り終えて、少なくとも僕は何かを創り出すことができたので、以前よりは“時”の重要度が下がったかもしれない。2本映画を撮ったし、子供も2人いることだし(笑)。
『モンティ・パイソン/人生狂騒曲』を想起させるところがありましたが、お好きな映画監督は?
パールフィ・ジョルジ監督:テリー・ギリアムが好きだ。特に『未来世紀ブラジル』が。他にも好きな監督はたくさんいるよ。ちょっと意外に思われるかもしれないけど、スティーヴン・スピルバーグも好きなんだ。『ジョーズ』『未知との遭遇』『インディ・ジョーンズ』シリーズとか。ストーリーがとてもうまく作られていると思う。アレハンドロ・ホドロフスキーも好きだと言ったら、僕をより良く理解していただけるんじゃないかな。僕の好みは幅が広いんだ。日本では塚本晋也監督にも敬意を払っている。『鉄男 TETSUO』は素晴らしいね。あと、三池崇史監督。やっぱり『オーディション』だな。もちろん、黒澤 明監督も。特に『羅生門』『七人の侍』が。あと、黒澤監督の『用心棒』をリメイクしたセルジオ・レオーネの西部劇『荒野の用心棒』も好きなんだ。『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』とかも。ジョン・スタージェス監督の『『荒野の七人』』も。……とにかく、好きな監督は多すぎるくらいいるんだ(笑)!
ハンガリー映画は日本ではなかなか観る機会がなく、私もボディ・ガボール、タル・ベーラ、イシュトバン・サボーの作品を観たことがあるくらいですが、そのわずかな経験から考えるに、ハンガリー人は大変イマジネーションが豊かな民族だという気がしたのですが?
パールフィ・ジョルジ監督:ハンガリーが輸出できるものというのは限られている。そういう知的財産くらいしか輸出できるものがないんだ。海もなければ産業もない。産業は社会主義体制の頃に全て台無しにされてしまったからね。天然資源もなければ、観光資源もそれほどないし。
でも、知的資源こそが永遠に残るかもしれませんね。
パールフィ・ジョルジ監督:そうだね。文化的なものだけでなく、頭を使ったもの、知的活動こそ、ハンガリー人が今後も生き残っていく上で最後の砦なのかもしれない。
これから映画をご覧になる日本の方々に向けて、メッセージをお願いします。
パールフィ・ジョルジ監督:Cinema Factoryをご覧の皆さん、こんにちは。『タクシデルミア ある剥製師の遺言』の監督、パールフィ・ジョルジです。この映画は全ての人々に向けた映画ではありません。単なる娯楽として観られる映画でもありません。一緒に考えるための映画です。日本人であれハンガリー人であれ、私たちが人間であることを考えるための映画です。何か人生の問題に突き当たっていたら、ぜひ映画館にいらしてください。一緒に考えましょう。
私にとってはめったにないことだが、正直、この映画を観た後は食欲を無くした。でも、この決して目には優しくない映像について、監督と脚本家の奥様が言われた言葉に、自分もステレオタイプの罠にはまっていたことを気づかされ、恥じ入る思いがした。この映画はまるで、不条理に飼い馴らされ、生理的反応の奴隷になっている自分を笑っているかのようだった。
それにしてもハンガリー語、ただの一言も類推できない言語だ。監督と奥様、通訳さんとの間で時に盛り上がっている会話をぼぉ~っと聞いているだけ。その分、原語からの聞き直しを必要しない……というか、出来ないですから!、妙なこだわりも潔く断ち切ることができるというのもいいものだ……などと思ったり。
ちなみにインタビューをしたのは銀座のハンガリー料理レストランだった。イマジネーションあふれる人々の住まう国、ハンガリー。そのお国の料理はいかなるものか。あいにく中途半端な時間だったため“準備中”だったのが口惜しい~。
(取材・文・写真:Maori Matsuura)
公開表記
配給:エスパース・サロウ
2008年3月29日(土)、シアター・イメージフォーラムほか、全国順次ロードショー