インタビュー

『ジョージ・マイケル 栄光の輝きと心の闇』サイモン・ネイピア=ベル監督 オフィシャル・インタビュー及びクリス松村の推薦コメント解禁!

A PROTOCOL MEDIA PRODUCTION ©2022

 1981年にアンドリュー・リッジリーとともにポップデュオ・ワム!を結成し、10代でデビューを果たしたジョージ・マイケル。「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ」「ケアレス・ウィスパー」「ラスト・クリスマス」などの世界的ヒット曲を作詞作曲し、ソロ・シンガーとしてもアルバム『フェイス』が1988年度グラミー賞を受賞し、通算売上枚数は1億2500万枚以上を記録するなど大成功をおさめたジョージがいかにしてポップ・ミュージック界の伝説となり、その光と影を生きたのか。ワム!のマネジャーを務めたサイモン・ネイピア=ベル監督がスティーヴィー・ワンダーやスティーヴン・フライら40人以上の関係者へのインタビューを敢行。ジョージ自身が語る当時のインタビュー映像や写真をはじめとする貴重なアーカイブ資料や未公開映像も多数使用し、音楽性、恋愛、有名人として及びセクシャル・マイノリティとしての精神的葛藤、匿名で行っていた慈善活動、薬物依存や所属レーベル会社との訴訟問題、メディアとの関係など、栄光と苦悩に満ちた彼の人生を時系列で辿る。

 本作のサイモン・ネイピア=ベル監督がマネージメントを務めたアーティストには、ヤードバーズ、ジェフ・ベック、ウルトラヴォックス、T・レックス、マーク・ボラン、ジャパン、エイジア、キャンディ・ステイトン、ボニーM、シネイド・オコナー、ワム!らがいる。

 この度、命日翌日の12月26日(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、kino cinema新宿ほか全国順次公開されるのを前に、ジョージの訃報を聞いてロンドンのジョージの自宅まで献花に行ったタレント・ディスクジョッキーのクリス松村の推薦コメントとサイモン・ネイピア=ベル監督のオフィシャル・インタビューが届いた。

サイモン・ネイピア=ベル監督 オフィシャル・インタビュー

Q.初対面のジョージ・マイケル、アンドリュー・リッジリーの印象はどんな感じでしたか。

 最初に「トップ・オブ・ザ・ポップス」で見た時の2人の印象は素晴らしいものでした。若々しく、楽しい、街の若者2人が遊びにくりだすような、酔って踊ってナンパするコンビ。まるで双子のような、『刑事スタスキー&ハッチ』や『明日に向かって撃て!』のようなハリウッドのコンビのイメージです。
 でも2人がうちに来た時の印象は、双子(のようなイメージ)とは真逆でした。お互いがまったく違うタイプだったんです。アンドリューはスクリーンで見る彼そのままでした。ジョージは、スクリーン上ではアンドリューを真似ていましたが、実際に会うと実物は違いました。ジョージは疑り深く、知性的で、非常にビジネスライクだったんです。アンドリューは椅子に腰かけると「いいお部屋ですね」と言い、飲み物を出すと足をあげていました。一方ジョージは、きちんとした姿勢で座り、「今までのあなたの仕事について教えてください。戦略は? 僕らがあなたと契約すべき理由は?」と尋ねました。素晴らしいと思いましたね。この時点で彼らには必要なものが全てそろっていることに気がつきました。イメージを持っている人物がいて、ビジネスは真剣勝負だと理解している人物がいる。さらに、彼が人をあっと言わせるようなソングライターであることも判明しました。

Q.ジョージと仕事していて「本当に天才だ」と感じた瞬間は?

「Last Christmas」こそ、彼が天才だと証明した曲。人々に馴染みのあるものを取り上げ、それを再構成して『今までこういう形では見たことがない』という作品に仕上げました。歴史上最も素晴らしいソングライターの一人だと思いました。

Q.ワム!の中国公演は歴史的な事件でしたが、やり遂げるには何が大変でしたか?

 実現するまでに、15回中国を訪問しました。これは中国と日本で共通している点ですが、これらの国では到着してすぐに契約する、ということはできません。まず人々に会って、友人になる必要があります。ヨーロッパにこの習慣はありません。電話をかけ、集まり、お互いの名前も知らないうちに取引を始めます。ですから、最初の3〜4回の訪中は、彼らの信頼を得て、話したいと思ってもらうためのものでした。毎月中国へ行き、キーパーソンに連絡を取り付けて昼食をご馳走する。そして次の月には、そこにさらに誰かを招待する。毎月昼食会の規模は大きくなっていき、15ヵ月後には15〜20人の食事を負担していました。毎回行く度、みんなで大きなミーティングです。とても長いプロセスでした。
 でも実際のところ一番、そして唯一大変だったのは……ようやく事が進み、ロンドンに戻ってジョージとアンドリューを呼び出し「夕食においで」と言った時のことです。彼らがやってきて、「話がまとまった。中国に行くぞ」と言うと、ジョージが「行きたくない」と言ったのです(笑)。それが一番大変でしたね。そして1週間以内に説得しなければなりませんでした。でも幸いなことに、この時に限って、普段ジョージの肩を持つアンドリューが、私に味方してくれたんです。普段はパートナーの顔を立てなければなりませんが、この時ばかりはアンドリューが「バカを言うな」とジョージに向き直って言いました。翌朝にはジョージが「分かった。中国には行く、でも写真家と記者は無しだ」と言いました。ですが、記者と写真家を集めることこそが中国に行く主目的だったんです。中国に行くのは、なにも新しい市場開拓のためではなく、アメリカで2人をスターダムにのしあげられるよう、露出を増やすためでした。世界中の記者と写真家を集めるのが目的だったわけです。なのに、ジョージが「行くのはいいけど、報道は嫌だ」というわけです。私は「大丈夫。問題ない。報道はなしね」と答えました。彼は中国に到着してから、何が起きているのかを知ったんです。

Q.ワム!が解散した理由は?

 結局のところジョージがゲイであったことに帰結します。しかし、彼はひどい間違いを犯しました。ソロ活動を、より強いヘテロセクシュアルなイメージでスタートしたのです。その像を維持するのは困難なことです。私は当時、「君のやり方は間違っている。嫌になるぞ」と言いました。でも拒否された。彼はマドンナよりも大きなスターになりたがっていました。『Faith』はマドンナと同じくらい売れたので、望みは叶いました。でもツアーが終わる頃には、すっかり嫌になっていた。彼は間違いを犯したんです。

Q.このドキュメンタリーを撮ろうと思った理由は?

 ジョージ自身が制作に関わった『ジョージ・マイケル:フリーダム』とは違う、客観的な視点のドキュメンタリーが必要だと思ったのと、その後に公開されたドキュメンタリーがどれも暴露的な方向性だったことが不満で、アーティストとしてのジョージを理解しようとする良いドキュメンタリーを製作する余地があると思いました。ヴァン・ゴッホや、ラフマニノフ、あるいは偉大な作家についての映画が作られるようにね。ジョージはそれに値すると思いました。

Q.日本のファンには、この映画を通してどんなことを伝えたいですか?

 ただ楽しんで、感じて、ジョージについて前よりも知ってもらいたい。そしてファン的な意味での“好き”や“夢中に”ということではなく、思慮深い人間としてより好きになってもらいたい。なにか彼に対して賛同できないこと、彼の言ったことに賛同できない部分があっても、映画がそれを説明できていたら良いなと思います。特にゲイであることに関して、とてもオープンだったから。映画を別においても、彼をとても人間的な人物だと捉えてほしいです。

クリス松村(タレント・ディスクジョッキー)コメント

 「あなたはゲイですか?」と司会者に質問されたジョージ・マイケルが、「違う!」と否定して「誰にも関係ない」と答えた部分で、私は、この作品を見て、泣く予定など一切なかったのに、涙が自然と溢れて止まりませんでした。
 自分のセクシュアリティだけは……小さなカミングアウトを作品に込めながら隠さなければいけなかったという残酷な状況。
 しかし、彼は大スター……カミングアウトは裏切り。
 ジョージの辛さが痛いほど分かります。
 「彼は絶対にゲイ」……私のまわりでは、常にそうささやかれていましたし、大成功した「フェイス」のいでたちは、まさにそのものでしたから、その確信部分の表現にも期待していたのです。
 「人々はポップスターに自分の理想像を投影する」
 まさにそれだと思います。
 どんな音楽解説書にも書かれていない、ジョージ・マイケルの作品の裏側の核心部分が手に取るように分かる作品。
 作品の最後のシーン、あの場面だけ私は、ジョージと一緒でした。
 彼がクリスマスに天国に召されたというニュースを聞いて、私は彼の自宅に飛んだからです。
 たくさんのファン、花、彼の車には愛のメッセージがたくさん書かれていました。
 闇に負けたかもしれないけれど、彼は素晴らしい「愛」と「勇気」を残してくれました。
 壮絶な生きざまを見せ続けていた大スターの真実。

A PROTOCOL MEDIA PRODUCTION ©2022
公開表記

 配給:NEGA
 12月26日(金)より全国順次公開

(オフィシャル素材提供)

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