インタビュー

『幸福のスイッチ』安田真奈監督 単独インタビュー

©2006「幸福のスイッチ」製作委員会

微妙な心のギアチェンジが出来る“個人の大事件”を描いていきたいです

 田舎町で小さな電器屋を経営する頑固おやじと、3人の娘たち。平凡な日常の中で、怒ったり笑ったりしながら、少しずつ理解し合い、少しずつ絆を深めてゆく親子の温かな風景を描いた『幸福のスイッチ』。会社員として働きながら自主映画を撮り続け、本作でついに、豪華キャストを迎えて劇場映画デビューを果たす安田真奈監督が、映画制作に懸ける思いを語ってくれた。

安田真奈監督

 1970年、奈良県出身、大阪在住。神戸大学映画サークルで8mmを撮り始め、約10年のメーカー勤務の間も年1~2年撮り続ける。自然体の作風が評価されて各地映画祭でグランプリ6冠を獲得。<OL映画監督>として多くのメディアに取り上げられた。
 会社員時代の監督・脚本代表作は『オーライ』(2000年関西テレビ製作。日本映画監督協会新人賞ノミネート)、『ひとしずくの魔法』(2001年関西テレビ・吉本興業・和歌山マリーナシティ製作)。2002年秋退職後は、テレビ東京「美少女日記」内ミニドラマ『リトルホスピタル』(1話4分×連続55話)監督・脚本や、映画『猫目小僧』脚本(楳図かずお原作・井口昇監督2006年)、NHK「中学生日記」脚本を担当するなど、活動の場を広げている。

今回、“小さな電器屋さん”というところから発想されたとか?

 “小さな電器屋”を発想する前に、まず家族ものを撮りたいという思いが10年くらい前からありました。そのころは会社員で、会社に入る前は、学生にありがちなんですけど、おじ様たちが苦手だったんですね。“脂ぎってる”とか“説教されそう”とか、“電車の中で酔っ払ってるオヤジ最悪”みたいな苦手意識がすごくあったんですけど、実際席を並べて一緒にお仕事をさせていただくと、日々すごく頑張って苦労されて、喜んだり悲しんだりしながら生き生きと仕事をなさっていることに気がつきまして。上司には怒られ、得意先にはいろいろ言われ、部下には陰口を叩かれながら苦労されている姿を見て、“あぁ、皆さん、頑張ってらっしゃるんだ”と思って、苦手意識がなくなったんです。ただ、私はそうやって親しみを抱くようになりましたが、その方のご家族はきっと、日々苦労しているお父さんの姿を間近で見たことがないですから、お父さんが疲れた顔で帰宅すると、奥さんは文句を言うし、子供は反抗してしまう。そうしたすれ違いが寂しくて、家族ものを描きたくなりました。
 そのうちに、仕事で地方の電器屋さんを回るようになりましたが、そこには会社員のお父さんのおうちとは真逆の構図があることに気がつきました。自営業は、日々嫌っていうほど、父親の背中が見えてしまいます。お父さんが仕事を頑張っていてお客さんにも人気があると、自然と息子も継ぎたくなるし、お父さんが「量販店にやられて大変だ」みたいなグチばっかり言っていると、息子も自然と違う仕事を選んでお店もつぶれるという、ものすごくわかりやすい家族の構図が、そこにギュッと入っていたんですね。
 で、“やるんだったら自営業を舞台にしたいな、でも自営業にもいろいろあるよね”と考えたんですけど、店頭だけでやりとりが済んでしまう八百屋さんやパン屋さんと違って、電器屋さんは一軒一軒おうちに上がりこんで、例えばラジカセの使い方を5回でも教えに行ってあげるとか、そういうすごくきめ細やかな商売をされてたんです。修理が終わるとご飯ができてたり、「お風呂入っていき~」と言われたり、ネギもらったり(笑)、鍵預かって「留守の間に修理して」と言われたり……。今どき日本にこんな熱い商売があったのかと驚くような、家族間の人間関係も濃ければ、お客との関係もやたら濃ぃ~い、ドラマの宝庫に見えたんですよ。だから、“家族ものを描くなら、今まであまり描かれたことのない、ドラマの宝庫の電器屋を舞台にしたい”と構想をはじめました。
 ただ、インディーズ映画を撮っているうちに賞をいただいたりとか、脚本などを頼まれることが増えてきたので、2002年の秋に会社を辞めて、”電器屋脚本をいよいよ”と思って書いたんですけど、多くの映画関係者に「電器屋なんて地味だから客が来ないよ」と言われまして、企画が立ち上がっては頓挫し、脚本を持っていっては断られ……という状況の中をさまよい、撮影が決まるまで3年かかりました……(笑)。その間脚本を10回以上書き直し、ストーリーも大変更して、電器屋さんもいっぱい取材しました。娘さんのいる所、息子さんが継いだ所、お婿さんをもらって継いだ所、さまざまありましたね。また、知り合いのお店に「ちょっと何日間か手伝わして」と言って売り子さんをさせてもらったりとかして、リアルなネタを集めて、脚本を少しずつ分厚くしていきました。

脚本を大変更されたというのは、どういった部分だったのですか?

 ストーリー大変更の一番の軸だったのは、最初はお姉ちゃんと弟のいる電器屋という設定だったんですけど、男の子がいると、その子が継ぐか継がないかみたいな、分かりやすい話になっちゃうんで、家族設定・ストーリーをアレコレ変えて製作会社と相談しながら、最終的に三姉妹設定にたどりつきました。それに合わせてストーリーも変えていきました。

では、そのときは弟が主人公で?

 お姉ちゃんが主人公で、弟が「継がない」と言い出して、みたいな話にしていました。

電器屋さんって、ちょっと町医者的な感じがありますよね。

 そうそう、“今どきあったのか、こんな商売?”みたいな発見が結構ありましたね。お客さんとの関係が本当に家族的で。

これまでの作品も本作も関西が舞台ですが、それはやはり身近な世界で描きやすいということがあるのでしょうか?

 ええ、それもありますが、関西出身の人間でしたらほとんどみんなが感じてることがありまして。それは、テレビなどで聞く関西弁は、“なんでそんなに全部ヤクザ屋さんっぽかったり漫才っぽかったりするのかな。おばちゃんは全員、大阪のおばちゃんみたいだし(笑)、なんでそんなに過剰気味なのかな”ということですね。自然な感じの、自然な関西の良さが描かれたものってあまりにも少なくて、“東京を舞台にしたものは東京の方に任せよう、私は関西の平熱の良さみたいなものを自然に描きたい”と思っているので、今後も関西でやりたいなと考えています。

関西弁は、地域によっても微妙な差があるんですよね?

 そうです。今回特に和歌山弁というのは、関西の中でもちょっと濃ぃい方言なんですよ。だから余計に、主演陣含め隅から隅までキャストは関西人じゃないと、とてもじゃないけどリアルな和歌山弁は無理なので、キャストは絶対関西出身者というのは、当初からの私のリクエストでした。ですから、上野樹理ちゃんは兵庫で、本上まなみさんは大阪で、オーディションで決まった末っ子の中村静香ちゃんは京都で、沢田研二さんも京都で、他の方々も関西の役者さんですし、舞台となった田辺のエキストラの方たちにも参加していただきました。
 三姉妹と派遣電気工事士役の林 剛史くんと撮影前に、田辺弁勉強会をしたんですよ。脚本を田辺弁で読んでくださった先生のお手本CDを聞きながら、「今のは兵庫と違う、大阪とも違う。今のは共通語っぽい」とかイントネーションを書き込んでやっていきました。いくら全員「関西弁は大丈夫です!」と言いながらも、和歌山の言葉はまた別ですから、方言指導の先生には現場にもついていただきました。
 やっぱり、今まで自分が関西弁のドラマを見て“違和感あるな~”と思っていたのが、この映画にも感じられちゃうと嫌だったんですよね。ストーリーに入るよりも先に、言葉を聞いた瞬間にもう見たくなくなるというのは、すごくもったいないことじゃないですか。せめてそこはなんとかしようよ、と思いまして。東京の方々は「分かんないよ、そんな違い」と言われるかもしれませんが、地方の文化って、言葉にしても、もっと大事にされていいと思うんですよね。今回は、地元の皆さんが応援してくださって、地元でも愛される映画を、ということで一緒に作りましたので、言葉が違うというのはすごく失礼なことで、ぜひとも“ふるさと”の良さを映画の中に取り入れていきたかったんです。

和歌山の言葉は他の関西の方たちにとって、どんな風に聞こえる響きを持っているのですか?

 まず、分からない単語がちょこちょこあるんですよ。「やにこい(=すごい)」とか、「なっとうした」というから“納豆がどうした?”と思ったら(笑)、「どうした」という意味だったり。あと、イントネーションも、「ほいたらよ~」とかやたら「よ~」をつけるんですけど、それは大阪や兵庫と違いますね。和歌山って、関西の中でも“近くて遠い関西”なんですよ。例えば、奈良は大阪の隣にあって、電車で30分くらいですっと行けてしまう感覚なんですけど、同じく県は隣接していても、和歌山は小旅行に行く所というイメージなんです。ですから、関西の中でも和歌山弁はちょっと耳慣れないものがあって、土地の雰囲気も、蜜柑と梅がたくさんあって、他の関西の地域とは違う、ノスタルジックな別世界みたいな印象がありますね。

監督ご自身は奈良出身ですよね? どうして舞台を奈良にしなかったのですか?

 今回“関西弁の映画で関西の空気を伝えたい”と思いながらあちこちロケハンしたんですけど、製作会社から「ちょっと和歌山でもロケハンしてみてよ」と言われて、行ってみたんですね。そうしたら、滋賀や兵庫の農村とはまた違って、山が緑で田んぼも緑という素朴な景色だけじゃなく、そこにみかんの色があったり、2月になったら白い梅林がパーっと咲いて村が白くなったり、とても表情が豊かな村に見えたんです。それが背景的にすてきだなと思いまして。また、ロケハンに行ったときも、ロケハン隊って結構怪しい一団に見えたりするんですけど(笑)、そんな私たちにも「みかん、あげるわ」みたいな、人と人の垣根の低さを感じまして、このドラマの人と人の絆を描くには、景色の素朴さも人柄の素朴さもピッタリだなと思ったんですね。
 あと、これはおまけ的な話なんですけど、この田辺という地域は、あまり量販店が進出していなくて、こういうちっちゃな電器屋さんが割りに元気な所なんですよ。

今回は本当に豪華なキャスト陣でしたが、監督のご意向どおりだったのですか?

 沢田研二さんは想定外でした(笑)。映画出演されるのも何年ぶりだろう、という感じでしたよね。

世紀の大スターですからね。

 そうですよ! それが“電器屋おやじ”ですからね(笑)。「関西人のキャストじゃなきゃ嫌だ」と私は終始言い張ってたんですけど、なかなかお父さん役が決まらなかったんですよ。でも、樹里ちゃんの日程はその時期しか空いてなかったし、その日程に合う、関西弁の出来るあの世代の役者さんで、頑固おやじで(笑)……となると、なかなか決まらない中で、製作会社の方が「まあ、予算枠から言っても、“ごめんなさい、この間まで会社員でした”(笑)みたいな監督のキャリアから言ってもあり得ないんだけど、ダメモトで脚本読んでいただいたら?」と提案されて、沢田さんに脚本をお渡ししたら、読みながら「クックックッ」と笑ってらしたようで、OKが出たんですね。沢田さんには5日間だけ来ていただいて、出演シーンを全部撮り上げました。
 うちの母親の反応がすごくおかしくて、「沢田さんが出てくださる」と言ったら、「沢田さんが出る映画に、あんた、見学に行くんやろ?」と言われまして(笑)。「まあ、そう思われるのが正解やな~、ごめーん、この間まで会社員してて、これが劇場デビューやしな~、そりゃそう思うわ、単館系やしな~」みたいな(笑)。本当と知って、母のテンション、ガーッとあがりまくりでした(笑)。

沢田さんご本人はこの役について何かおっしゃっていましたか?

 あんまり役についてじっくりお話するタイミングがなかったんですけど、インタビューとかを拝見すると、ご自身は波乱万丈な人生で、「こういう電器屋さんのおやじというのは、そんなに自分の人生と近い部分はないんですが、こういう関係ってあるんだろうなと、いろいろ想像しながらやってます。娘を持つ世代の方々にはぜひ見ていただきたいですね」みたいなことをおっしゃっていたようです。細かい部分については、「もう少しこういう感じでお願いします」と言って何回か撮り直させてはいただいたんですけど、肩で風切るスーパースター然としているところは全然なく、スーパースターなんだけど物腰の柔らかい紳士的な方で、「このシーンでそこまで笑顔ですと、娘と和解しすぎてしまいますので、もうちょっと目線を合わせずに抑えてください」といったようなことを細かくお願いすると、「はい!はい!」とやってくださるような、すごくすてきな方でした。

ご本人的にも、この役は新鮮だったのでは?

 そうかもしれないですね。確か、違う映画かドラマで町工場のおやじは一度、やっていらっしゃったようですが(注: BS-iで放映された『最悪』)。でも、仕事に一生懸命なんだけど、家族には理解されない、いかにも「おるおる」みたいな“普通のおやじ”というのは、もしかしたら新鮮だったのかもしれませんね。

三姉妹を演じたお三方は、現場ではどんなご様子でしたか?

 本当に仲がよかったですよ。他の出演者の方たちも含め皆さん、気立ての良い方たちが多かったので、待ち時間とかはすごく和やかムードでした。特に、樹里ちゃんと静香ちゃんはオフの時間も結構一緒にいて、長いせりふを自主トレしていたりして、“あぁ、やってる。かわいい!”みたいに私は見ていましたね。

やっぱり、関西が舞台で皆さんも関西人だということで、心持ちも違うところはあったのでしょうか?

 そうですね。あと、現地のボランティアの方たちですとか、エキストラの方たちも皆さん、歓迎してくださいましたから。エキストラには180人くらい応募があったんですよ。クラインクイン・パーティーというのをやって、樹里ちゃんたちもあいさつに来たんですけど、有料にもかかわらず800人も市民がいらしたりとか、1ヵ月ほどの撮影の最初から最後まで、ものすごい大歓迎モードで、地元をあげて応援してくださいましたね。メインのキャスト陣も現地の方々も含めて、常に和やかな雰囲気でした。静香ちゃんにも、「今日調子、どうや?」とか、“知り合いのおっちゃんかいな”(笑)みたいな感じで声をかけられたり、樹里ちゃんに対してもエキストラのおばちゃんが「女優さんやからツンツンしてるかと思ったら、樹里ちゃんは全然そんなことないわ~!」と言ってて、樹里ちゃんも笑ってたりとか、なんか妙にみんなが溶け込んでいて、おもしろかったですね。

ところで、監督の映画にはフランキー仲村さんが結構毎回登場されていますね?

 はいはい、今度はコンドーのCMで(笑)。店長役だったんですよ。あの方は仲の良い俳優さんでして、その時々でハマッた役をお願いしています。今回は「コンドーの店長だろう!」みたいなノリで出てもらっちゃいました(笑)。

監督の作品では割りに、不器用に生きている女の子が主人公という印象がありますが、そういう子たちに一種共感を覚えていらっしゃるのですか?

 あぁ、そうですね。“社会の大事件”より“個人の大事件”を撮りたい、と常々思ってまして。ドラマチックな事件や展開の方が映画になるんですけど、日常的な風景の中で、ちょっと気分が前向きになったり、変わったり成長したりするという、微妙な心のギアチェンジを描きたいんですよね。殺人事件を今後一切書かないということではないのですが、個人にとっての大事件を丁寧に描きたいというか。だから、ついつい、女の子が主人公で、その子がちょっと前向きになるみたいなお話を、応援歌的に撮りたいというのはあるかもしれません。ただ、過去にはおっさんとか(笑)、男の子主人公の自主映画もちょこちょこあるんですよ。

“おっさん”が主人公の自主映画は何というタイトルですか?

 『おっさん・らぷそてー』といいます(笑)。これは、私のホームページで見られます。そこで見られる作品は結構あるんですよ。あと、『忘れな草子』という作品が、私にとっては自主映画の代表作だと思っていますので、ご覧になっていただけるとうれしいです。

キャラクターにご自身を反映させている部分はあるのですか?

 “この人がズバリ、私!”というのはあんまりないんですよ。今回の映画では、おやじの“行け行けどんどん”(笑)みたいなところは私に似ているだろうし、スランプに陥ったときにどうしても視野狭窄になって出口が見つからないときの荒れ具合は、怜ちゃん(上野樹里)に似ているだろうし、調子のいいところは香(中村静香)に似ているし、という具合に断片的に散らばっているんですよね。
 それに、それぞれのキャラクターは、これまで取材してきた何人かの電器屋さんたちからお父さん像を作り上げていますし、三姉妹設定にした段階で、私は弟しかいないので、姉妹のいる方の取材をして、“どうなん? 三姉妹の力関係って?”(笑)みたいなことを聞いたりした中で作っています。また、怜がイラストレーター志望という設定を考えた段階で、イラストレーターやデザイナーの方々に取材して、「新人の子で一番当たりやすい壁はなんですか?」「どういう風にして辞める子が多いですか?」などといった質問をし、「芸術と仕事のバランスで、仕事を放り出しちゃう子が多いね」とか伺った上でキャラクターを創造していきました。取材をさせていただいた方たちの像を組み合わせているので、おそらく誰もが感情移入できる部分はあるのかもしれませんね。

それは絶対にありますね。「こういう感じだよ、自分」みたいな(笑)。

 あるでしょうね(笑)。だから、“これが私だ!”みたいな私小説的な作り方というよりも、なんか“あぁ、いるいる、こういう人。あるある、こんなこと”といった共感が出来たり、自分や家族に重ね合わせたりして見られるものを作りたいなとは、常に思っていますけどね。

父と娘の和解のシーンですが、おそらく監督によっては、思いっきり盛り上げたりしそうですよね。でもこの映画は、さらりと描かれているのがいいと思いました。

 ありがとうございます。私、「一番好きなシーンはどれ?」と聞かれたら、夜、車の中で父と娘が話すシーンなんですよ。目線を合わさないで、言葉を追うとただ単に納品のことしか話してないんですけど、表情や間で、歩み寄りたいけれども寄りきれない親子の距離感がすごく出ているんですよね。あそこは樹里ちゃんと沢田さんのお芝居を見ていて、“あぁ、ホントにこのお二人にお願いしてよかったな”と思いました。
 泣かせる映画とかではよく、危機的な状況に陥って、カッコいい決めぜりふがあって、すごい音楽がすごいボリュームでかかって……みたいなのが多いですよね。そういうのって見ていて、ノレるときはノレるけど、引くときはドン引きになってしまいますね(笑)。ノレるときはどういうときかというと、それまでのシーンで、そこに至る登場人物の心の機微が丁寧に描かれているときです。その場合には共感できるんですけど、「さぁ、お泣きなさい!」(笑)みたいな感じで、あまりにも盛り上げ大会になっていると、へきえきしちゃうんですよね。やっぱり、その場の音のボリュームとかカッコいいせりふじゃなくて、登場人物に自然に感情移入できるとか、どこか応援したくなるというものを、それまでのシーンにいかに散りばめているかということが、感動の要因だと思いますので、そんなに演出を派手にする必要は全くないんですよ。私としては音楽も含め、全体的に抑えめでやるようにはしました。

実際、「日本の親子ってこんな感じだよね」と思わせる描かれ方でしたね。

 ええ、ですから、電器屋のネタについてもすべて取材に基づいていて、あることばかりを入れてやっているんですけど、親子の会話についても、あまりにもドラマ的な作ったせりふじゃなくて、出来るだけ“あ、こんなこと言いそう”という内容で構成したいなと思って作りましたね。車の中で、「怜!」「お父さん!」とか、そんなのいらない、みたいな(笑)。修理の話だけでいい、修理の話だけしていれば、十分に親子の心は伝わるはずだから、ってそんな感じでした。

ちょっとだけ「ええ仕事したな」というせりふはありましたね。

 そうそう、「ええ仕事したな」ってついつい言うんですけど、次には「あぁ、そうか、さ来週は東京やな」と沢田さんが遠い目をするんですね。

電話でお父さんが、最後に突き放すようなところもいいですね。

 こんな風に、おやじは相変わらずですけど、怜の方の受け止め方が最初と最後では随分変わっていますね。おやじの態度はやっぱり、不器用でぶっきらぼうで、でも本当は心の中では愛情が深くて、というままです。そのことを怜はこれまで気づけなかったからマイナス思考になっていただけで、それがプラスの方にスイッチしたというのが、彼女にとっての成長だと思いますね。なんか、本当にささやかな映画なんですけど(笑)。

自分はダメだなと思っていて、でもそんなダメな自分を、実は必ずどこかで支えてくれている人がいるという、そんな温かさのある人間関係が見えてくる映画でしたが、人には必ずそういう存在がいるんだ、という思いはありますか?

 そうですね。やっぱり人間は一人で生きているんじゃなく、本当にいろいろな方に助けられているんですよね。それに気づければ、自分は意外と幸せかもと思えてくるのでは。人は人とのかかわり合いの中でしか生きられないので、そうしたつながりについては、今後も描いていきたいですね。例えば、同じクラスにいて、同じような毎日を送っている子たちでも、一方は毎日「学校がつまらない」と文句ばかり言って、他方はそこそこ機嫌良くやっていたり、会社でも同じような仕事をしているんだけど、一方はずっと上司の文句を言っていて、他方はそこそこ満足して仕事をしていたりということはありますよね? だから、本当に人が幸せかどうかというのは、その人の心の持ちよう、主観の問題だったりするわけです。自分の人生はそう悪いもんじゃないと思えるかどうか、そういう風に発想を変えられるかどうかが肝要だと思うんですね。
 また、とかく人って、表面で他人を判断しがちで、例えばお金持ちの人を見ると、「いいわね」と簡単にやっかんだりするんですけど、実はその人は大きな苦労をされてきたからこそ現在があるのかもしれないですよね。お父さんは頑固でうるさくて、外面だけはいいように見えるかもしれませんけど、実は娘のために一生懸命貯金していたりとか、人には娘のことを自慢しているとか、自分の知らないところではいろいろやってくれているかもしれないんですよ。つまり、パッ見で人を判断したり、うらやんだりするのではなくて、その人の背後には何があるのかなということに、私はすごく興味があるんですね。

クレジットでいつも、「監督・脚本」ではなく「脚本・監督」としているのは、何か思いがあるのですか?

 特に順番にこだわっているわけではないんですけど、順番はさておき、私は脚本家としてもやっていけるようにしたいと思っているんです。ですから、脚本だけの仕事も請けていますし、今後も、“どうしてもこれは自分で監督しないと気がすまない。電器屋おやじの話なんて、私以外の誰がやる!”みたいな思いのつまったものは自分で監督するというスタンスでいきたいです。脚本だけでも食べられるようにしたいですね。会社を辞めるとやっぱり、収入は“あぁぁぁぁ……”という感じになってしまいますので(笑)。

フリーは大変ですよね。この映画にかかわっている間は無収入だったとか?

 ええ、企画が通るまで3年かかったんですが、最後の1年は無収入に陥りましたね。貯金を切り崩し、もろもろの支払いは「すみません、ちょっと待ってください」みたいな生活でした(笑)。

そういう思いをされてまで、どうして作りたかった映画だったのですね?

 なんか、最後は結構、意地になっていたかも(笑)。“「地味だ、地味だ」と言われるけれども、こんなにドラマの宝庫なのに、ここで私があきらめたら、電器屋の映画は今後日本映画で生まれてこないな”と思って(笑)。

その前は会社員として働かれていたのですね。働きながら映画をずっと作り続けるというのは、すごいエネルギーを必要としたのではないでしょうか。皆さん、そこで結構くじけたりあきらめたりすることもあると思いますが、ご自身を支え続けてきたものは何ですか?

 もしも芸大か映像学校に通っていたら、私も最初から映像業界に行ったと思うんですよ。または、CGやアクションを使った“社会の大事件”的映画を撮ろうと思っていたら、早めに業界に入った方がよかったと思います。でも、私は先ほども申し上げた“個人の大事件”というか、日常生活を大事に過ごして、そこから生まれてくる発見をドラマにしたいという思いがあり、観客目線、生活者目線でいたいなと思ったので、映像業界は一つくらいしか受けず、それは落ちたのでメーカーの方に行ったんですね。
 それで、年に1本は絶対に撮ろうと決めました。“それだけ撮っていったらうまくなるかもしれない。うまくなって、本当に映像に行きたくなったら続ければいいし、年1本というのに挫折したら、きっとそこまでの情熱なんだから、会社員を頑張ればいいじゃん”と考えて、とりあえず自分の中でプチノルマを課したんですね。幸い、毎年いろいろな賞をいただくようになって、テレビ局の番組も作らせていただけるようになったので、収入はさておき、なんとかそちらにシフトすることが出来たんです。
 どうして年1本撮り続けられたんだろうと振り返ってみると、会社員をやっていたからこそのサイクルみたいなものがあって、それがかえって助けになった気がします。私は販売促進が担当で、チラシ・カタログ制作、展示会の企画などをやっていました。つまり、“作って、出して、成果を検証して、次に生かす”という仕事をしていたわけです。それが、自主映画のセルフ・プロデュースに役に立ったというか、もろにリンクしていたんですね。よくあるインディーズ映画の若い作家というのは、映画を撮ってみんなで見て棚に……とか、作ってコンテストに出すけど、一つのコンテストに落ちたら棚に……とか(笑)、作ってコンテストに出して、評価を得たけどそこで止まったりが多いんですけど、それはいかんだろうと。スタッフ・キャストがいるわけですから、ちゃんと作り上げて世の中に出して、こういう評価が得られたよ、というのを返してあげないといけません。みんなタダで手伝ってくれているわけやから、それは非常に失礼やし、作る甲斐もないやろという考えでいました。そこで、必ず複数の映画祭に応募したり、映画祭で反響を得たり、上映会でアンケートをとれたら、スタッフ・キャストに伝えたりしました。そうしたらみんなも、「土日ごとに安田の映画に付き合うのはしんどいけど、まあ、ちゃんと世の中に出して、ちゃんと反響もあるみたいやから、また手伝ったろか」ということで、また次助けてくれるわけです。それはやっぱり、会社員をやっていたから、そのサイクルが素直に取り込めたんじゃないかなと思います。会社生活が映画制作にダイレクトに役立ったということですね。
 時間はほんまになかったですよ。睡眠とかを削りながらでした。もちろん、残業も土日休日出勤というのもありました。ただ、販売促進って、カタログなどを作って印刷を終えたら、ちょっとひと休憩できたり、多少サイクルが読めたのは助かりましたね。でも、当時は本当に無理をしていました。金曜日に仕事が終わってから、みんなで夜、車で広島に出発して、土日で30分ものを撮って、帰ってきて月曜出勤とか(笑)。

一日で200カット以上撮られたりしたそうですね(笑)。

 ありましたね~(笑)。でも、おかげさまで時間がない中でも、何とか自分のテイストを出して脚本を書くというようなことはできるようになってきた気がします。
 先ほど代表作と言った『忘れな草子』も、時間のない会社員の典型みたいな制作方法です(笑)。結婚式か何かで横浜の方に行くことがあって、一日フリーだから“鎌倉で観光をしようかな、あ、でも撮った方が得やわ”と思って、東京の友人に電話して「カメラ持ってきて。ストーリーまだできてへんけど、とりあえずあたし観光するから撮って」といって撮って。翌々週は尾道に同窓会旅行だったから、自分でロケ費出してみんなを連れていったら、えらいお金がかかってしまうけど、““映研の同窓会旅行やから撮影できるやん”と思って(笑)、そこで同窓会シーンを撮って。そこで、「同窓会で尾道に行ったんだけど、昔仲良かった女の子がドタキャンしてて、どうしたのかなと思って、彼女がピアノの勉強をしているはずの鎌倉を訪ねてみたら、いつの間にやら奈良の実家に帰っていたことを知る。一体何があったのかなと思い、奈良で彼女と再会する」という話になり、“三都物語が出来た!”という(笑)。
 こんな風に、身近にあるもので、面白いと思ったものを瞬間的に組み合わせるというやり方でも、テーマがしっかりしていたら成立するんです。こうして、仕事をしながらでも年1本、面白いものを作るという態勢は出来ていったので、後の脚本仕事には役立ちましたね。プロデューサーから次々に「これ入れて、それ入れて、あれ入れて」と言われても、「はいはいはい」と言いながらこなせるようになりましたので(笑)。時間のない中で、鍛えられたかなと思いますよ。

楳図かずおさん原作の映画『猫目小僧』の脚本も書かれていますね。監督のカテゴリーとは異なる感じがしましたが、どういう経緯で?

 楳図さんの原作って濃いですよね? 井口 昇監督も濃いんですよ(笑)。「さらに脚本家が濃いホラー脚本家だと、マニアだけの映画になりそうだから、カップルが見ても親子が見ても、“いい話だったね”という要素を作ってください」と言われて、オリジナルのストーリーを書きました。でもやっぱりあれは、脚本はあくまでベースで、その後監督さんがいろいろとアレンジされていますから、井口カラー、楳図カラーが出ていますね。私はあくまでベースでお手伝いするというスタンスでやりました。面白いですよ、異種同士が交わると化学反応が起きますから。“こうなるんだ、この脚本が!”みたいなことがありました。私、1本くらいはホラーも書いたことがあるんですけど、“そういう発想で来るか!”と驚かされましたね。

映画制作を夢見る女性たちにアドバイスをお願いします。

 全く違う仕事をしている方たちが多いと思うんですけど、それはもう、日々違う仕事を取材できると思った方がいいですね。例えば、パン屋さんでバイトをしている方が、本当は映画の制作をしたいと思っていたら、“パン屋の映画を撮らせたら、私の右に出る者はいないでしょう”くらいの思いでやった方がいいです。“これをやっているせいで、あれが出来ない”とは考えずに、今やっていることをすべて吸収した上で、ご自分のテーマで撮られたらいいと思いますね。今は機材の扱いとかも簡単ですから。

最後に、これから映画をご覧になる方々にメッセージをお願いします。

 映画『幸福のスイッチ』の監督・脚本を担当いたしました安田真奈と申します。私は約10年会社員をしていて、電器屋の映画を企画したんですが、撮影にこぎつけるまでに3年かかりました。3年間の間に何度も脚本を書き直したり、ストーリーを変更したり、電器屋さんを取材したり、無収入で苦しんだりしながらようやく作り上げました。おかげさまですてきなキャストに恵まれて、優しい映画になったと思っています。いろいろな観点で、ご自分やご家族に重ね合わせて、またはご自分の毎日に重ね合わせてご覧いただければ、さまざまなことを再発見できる映画だと思いますので、ぜひゆっくりとお楽しみいただきたいです。よろしくお願いいたします。

 さすが関西人、立て板に水の話っぷりにも感心させられたが、とにかくお話が面白く、30分が短い、短い。働きながら時間がない中で、自分の夢をかなえようと努力するのは至難のわざだ。でも、監督のお話を伺っていると、「時間がないから」を言い訳にしていろいろなことを投げ出してきた自分が心底恥ずかしくなった。やりたいことは石にかじりついてでもやるバイタリティーと精神力、自分の現状をポジティブにとらえて、それを夢に向けての一つのステップと考えるその発想。見習いたいと思えるお話をたくさん伺えたインタビューだった。
 平凡な日常や家族への愛おしみと、日々を前向きに頑張って生きる人々への思いがたっぷりつまった、心をほっこりと温かくしてくれるこの映画。ささやかな幸福をもらいに、ぜひ劇場へ⇒☆

(取材・文・写真:Maori Matsuura)

『幸福のスイッチ』作品紹介

 “お客様第一!”で儲けは二の次の電器屋の父と、そんな生き方が理解できなくて反発する娘。和歌山県田辺市を舞台に、ガンコ親父と三人姉妹の家族の絆を明るく優しく描いたさわやかな感動作。監督・脚本は、インディーズ映画祭で数々の賞に輝き、TVなどで多くの短編作品を手がけてきた、元家電メーカーOLの新鋭・安田真奈。

(2006年、日本、上映時間:105分)

キャスト&スタッフ

監督・脚本:安田真奈
出演:上野樹里、本上まなみ、沢田研二、中村静香、林 剛史ほか

公開表記

配給:東京テアトル
2006年10月7日(土)より和歌山で先行上映、10月14日(土)テアトル新宿、テアトル梅田ほか全国ロードショー

(オフィシャル素材提供)

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