インタビュー

『サイドカーに犬』根岸吉太郎監督 インタビュー

©2007『サイドカーに犬』フィルムパートナーズ

今までの出演作品とは違った“映画女優・竹内結子”をぜひ一緒にやってみたかったので、彼女に声をかけたのです

 久々に竹内結子がスクリーンに帰ってきた。最新主演作『サイドカーに犬』では、根岸吉太郎監督のメガホンの元、今までのイメージを一新する役どころに挑戦し、素晴らしい演技を見せている。東京国際映画祭の四冠ほか映画各賞を総ナメにした『雪に願うこと』から1年、またもや大きな感動を届けてくれた根岸吉太郎監督が、竹内結子起用の理由から本作の目指したものまで、多くの質問に答えてくれた。

根岸吉太郎監督

 1950年生まれ。1974年早稲田大学第一文学部演劇学科卒業後、日活に助監督として入社。藤田敏八・曽根中生らに師事後、1978年『オリオンの殺意より、情事の方程式』で監督デビュー。1981年『遠雷』でブリーリボン賞新人監督賞など各賞を受賞。以降、映画のみならず、松田聖子のステージの演出や中島みゆきの『夜会』シリーズのビデオ、CFのディレクションなどエネルギッシュに活動。2006年公開の『雪に願うこと』では、東京国際映画祭史上初の四冠制覇をはじめ、多くの国内各映画賞を受賞した。

まさにヨーコさん役の竹内結子さんの魅力爆発といった感のある作品でしたが、監督が本作で竹内さんを起用された理由は?

 以前から、竹内さんというのは不思議な人だなと思っていました。何で、(映画では)同じような役ばかり続けてやるのかなと。出てくる度に幽霊じゃない(笑)? テレビドラマを見ていると生身で活き活きしたところがあるのに、なぜか映画では無理矢理しっとりして、あの世からやって来る。だから、一度仕事をしたいなと思っていました。
 今、ちょっと悪口も言いましたが、彼女の中に昔から映画の女優さんが持っている深い魅力を非常に感じたわけです。今は、自分たちの身近で、自分たちと共通していることを見つけてその女優さんに共感できるスタイルが多いけれど、昔の映画の俳優さんたちは、自分たちよりちょっと遠いところにいて、でもそのことが魅力であるというスタイルがあった、そういうものを竹内さんは持っているのではないかなと思いました。多分、竹内さんは持っているのだけれど、そのちょっと遠いところにいるということを、逆の意味で皆が強調して使っちゃっていたなと思うからね、そういうのとは違う“映画女優・竹内結子”というのを、ぜひ一緒にやってみたいなと思っていたので、今回声をかけたわけです。

実際に一緒に映画を作られて、竹内さんはどんな方でしたか?

 やはり本人も同じようなことを、今まで自分がそういったある種の方向の映画ばかりやって来たことを感じていたのだと思いますね。それで、ちょっと休んでいる間に、自分が今までとは違う新しいことをやってみたいなと思っていた結果として、この『サイドカーに犬』という地点で僕と竹内さんとが一致したのだと思います。そういう意味では、本人が新しい自分を作ることに非常に積極的だったからやりやすかったし、お互いに緊張して一致点を目指すというか、“ヨーコさんというのはこういう人なんだ”ということをお互い一生懸命考えて作りました。ですから、(お互いの考えには)そんなに誤差があったとは思わないですね。現場を一緒にやったことは、楽しい経験でした。

竹内さんについての新しい発見はありましたか?

 許容量があるなと思いました。例えば、この映画の中で、ヨーコさんが薫のお母さんに頭突きをしますよね? 竹内さんに最初に出演をお願いしたときには、そんなことはまだシナリオに書いてなかった。竹内さんに決めてから頭突きのシーンを書いたのですが、それこそ竹内さんが持っている、今まで世間の人たちが思っているイメージからだいぶ離れている行動なのです。もしかしたら、竹内さんがやろうと思っていたことと違っていて違和感があると言われるかなと思いましたが、全然そういうこともなく、割と豪快に頭突きしているし(笑)。いくつかのことで、“あぁ、そこまで乗り越えるんだな”と判りました。躊躇なくヨーコさんをやっていくというのかな、照れだとか手探りだとかいうのではなくてね、ガ~ンとぶつけてみるというスタイルで彼女はやったと思うから、そういうことはすごいですね。
 あとね、彼女は非常に運動神経が良いですよね。僕の勝手なイメージかと思うけれど、自転車やキャッチボールをやっていても、非常に運動神経が良いのでビックリしました。

撮影中の竹内さんの印象的な言葉とか、何かエピソードがあれば、教えて下さい。製作発表記者会見のときに、竹内さんがまるで自分に言い聞かせるように「自分を諦めてはいけない」と言っていたのが印象的でしたが、普段からあのように飾らない人なのでしょうか?

 一番印象に残っているのは、彼女がしょっちゅう「大丈夫?」って言っていたことです。芝居をしていても、ヨーコさんになっているかどうか「大丈夫ですか? 大丈夫ですか?」っていつも聞いてたよね。「うるさい、大丈夫だからOKだしてるんだ!」って答えましたが(笑)。でも、映画に映っている姿は大胆だけれど、今までとは違う強いキャラクターを作っていくということにすごく慎重でしたね。作りながら、どの辺がヨーコさんなのかなって捜していたんだと思います。

小学生時代の薫役の松本花奈さんの演技も、非常に自然な感じで素晴らしかったですが、子役の方を演出するときに、気をつけたことはありますか?

 あまり余計なことは言っていないのですが、ただ、相手の話をよく聞くようにしてもらったことですね。彼女は自分から行動するよりも、相手の話を聞いたり見ていたり観察する役なので、どういう表情でどの位真剣に人の話を聞いているのかということが一番重要でした。そういうことを子役の人がやる、子役に限らず俳優さんがやるということは、なかなか大変なのですが、彼女は非常に集中力があって聡明に受けとめたので、竹内さんにとっても良かったと思います。花奈ちゃんが竹内さんの演技を引きだしたと思うし、竹内さんもまた、花奈ちゃんの演技を引き出したんだなと思いますね。

監督の映画は、以前に仕事をされた俳優さんとご一緒されることが多いですが、意識されているのですか? 信頼されている俳優さんをまた使いたいのですか?

 うん。それと融通が利くというのか、まず安く出てくれるから(笑)。「出ろ!」とか言うと、「しょうがないな」とかいって出てくれる、そういうのもあるし。続けて僕の映画を見てくれる方には、『雪に願うこと』を見てくれた方たちにとっては、伊勢谷(友介)君や山本(浩司)君が何か別な形で展開したら楽しんでもらえるだろうし。いつもそんなことをしているわけではないし、続けてキャスティングしていることは意識していないけれど、やはり若い俳優さんを、伊勢谷君にしても山本君にしても、僕も続けて見てきたいなという気持ちがあります。そうか、桔平も続いているんだよね。前回(『雪に願うこと』)の桔平はゲスト出演みたいな形だったけれど、本人から“いい加減にちゃんとした役で使え”って言われて(笑)。でも、今回の椎名桔平はなかなか柔らかくてそれこそ新境地、すごく良かったと思いますね。こんな柔らかくていい加減な役も出来るんだってね、役者としての幅を感じましたよ。

主題歌を作詞・作曲して歌ってもいるYUIさんとは事前に綿密な話し合いをされたそうですが、どんな話をしたのですか?

 映画の中身にこだわるな。映画から離れても良いから、なるべく中身にこだわらず、全体から受けた印象みたいなものをヴィヴィットに書いて欲しいということです。

それに対してYUIさんは?

 やはり、言ってみれば彼女が嫌いな映画じゃなかったということだな。頼まれ仕事ってあるじゃない? “今度、主題歌書かなきゃいけないんだ”というノリじゃなくて、この仕事は出来た。仕事と言うよりも、ヨーコさんと薫の関係に、彼女自身がすごく共感するところがあって、曲が作れると言うんですよ。彼女が言っていたのは、そんなことですね。確かに、そういう曲になっている。僕が言ったにもかかわらず、だいぶ映画寄りになっているとは思いますけれど(笑)。でも、すごく印象に残って、映画館を出た後も頭の中で鳴るような音楽になっていると思いますよ。

以前からYUIさんの曲は聴いていましたか?

 TSUTAYAにビデオを借りに行ったりすると店内で流れていたりするので(笑)。そういうときに聴きました。

主題歌をYUIさんに決めたのは監督ですか?

 いや、そうではないです。「どうですか?」と聞かれた時に、声の質感や今まで作ってきた曲などから、いいなと思いました。彼女の以前にヒットした曲、去年の今頃流行っていた横文字のタイトルの曲を、映像に乗せてみたりもしました。

YUIさんと竹内さんが演じるヨーコさんに共通点を感じたのですか? YUIさんも目に強い力を持ち、声も強さの中にちょっとした弱さを持っていると思いましたが、お会いになってそういった印象はありましたか?

 そうだよね。僕もそういうふうに感じるね。自転車で行った河原に座って「足、触ってみる?」とヨーコさんが薫に言っているときに、遠くでギターを弾きながら歌っていてもおかしくない(笑)。

時代設定が80年代という、遠いような近いような微妙な距離の時代ですが、撮影時に当時の自動車や自動販売機、コーラなどを集めるとき、どんな苦労がありましたか?

 ものがないということです。20年前のものは捜すのが結構大変で、コーラの缶ひとつとっても無いですからね。コーラの缶はコーラ関係の大コレクターがいて、その人にお願いしました。皆それぞれのプロじゃないと無いですから。パックマン、テーブル状のゲーム機とかもナムコに行ってもないですよ。車ももちろんそうですが、ひとつひとつのものを集めるのは大変ですよね。それと余計なもの、今の時代のものをどかすことも大変なんです。バスの外ですれ違う車に現在の車が出てくるだろうと、手ぐすね引いて見ていますからね(笑)。どうしても、そういった作業の分時間がかかってしまうので、大変です。でも、スタッフが良く集めてくれてね。そういうものひとつひとつが彩りになって、映画の懐かしさみたいな雰囲気を高めているから、良く集めてくれたと思います。

監督はこの映画の舞台となった80年代前半には既に映画を撮られていましたが、ご自身の当時の印象的な思い出はありますか?

 80年代前半は、僕のフィルモグラフィでは『ウホッホ探検隊』や『永遠の1/2』を撮っていた頃。たぶん、こういった映画の時代だったと思うんだけど。こんどの『サイドカーに犬』というのは、そういう時代に僕らが撮っていた映画のちょうど延長線上にあるような素材なんです。子役を使うのも、『ウホッホ探検隊』の男の兄弟以来。何かそういう巡り合わせは感じますが、自分にとっての80年代とかは、あまり強く考えなかった。ただ、原作者が育った時代とか、薫というこの映画の中のキャラクターが育った、大事な時間を過ごした時間として80年代があって、80年代が彼らにどういう意味を持つのかなということを考えて撮ったんですよね。まぁ、時代考証的にあまり厳格にやってしまうといろいろな風に破綻していくから、少し幅をもって80年代全般的なものみたいな括り方なんだよ。あまり追求されると困っちゃうんだ(笑)。

監督はこれまではどちらかというと男目線の作品が多かったと思いますが、ヨーコさんといい、薫ちゃんといい、本作は女の子の目線で撮られています。なぜ、この作品を撮ろうと思ったのですか?

 女の人を撮りたいなと思っていたんですよ、本当にね。僕はロマンポルノの出身なので、その頃からよく女の人を撮ったり裸にしたりしていますが、いつも男側から描いていたので、かなり前から(女の目線で)女の人を撮りたいなと思っていました。そういう時期にこの原作に出合ったことがひとつの理由です。なおかつ、この原作をぱっと読んだときにね、こういう映画を観てみたいなと思えるような作品だったものですから、原作権をもらいに行きました。ここのところ、女の人を描くということに興味を持っていたのでね、ちょっとやってみたいなと思ったわけです。

どうして女の人を撮ってみたいと思われたのですか?

 どうしてなのか、判らないけれど。『透光の樹』(2004)と『雪に願うこと』(2006)の2本はだいたい同時進行で考えていました。『透光の樹』もどこかで女の人を描いてはいるのですが、完全に女の人側というのではないですね、どうしてなのかはよく判らないですが(笑)。よく判らないけれど、判らないから撮りたいというのと、今までの人生でいろいろな女の人を見てきて判ったつもりになっているというところと、それが両方交錯して、撮りたいなという気持ちになるんですよね。最近は、男の人が考えていることよりも女の人が考えていることのほうが面白いじゃないですか? 多分、そんな気がするから女の人を撮りたいなと思ったのかもしれませんね。

監督は、この映画のヨーコさんというキャラクターに恋をして惚れ込んでいるように見えたのですが、このヨーコさんというキャラをどうやって作っていったのですか? 原作を意識されたのか、それとも竹内さんからのアイデアがあったのですか?

 基本的には原作にあるキャラクターなので、大きく逸脱してはいないと思います。ただ、映画でも原作でもそうですが、ヨーコさんがどういう人なのかということは薫から見た部分しか描かれていません。過去にどういうことがあって、薫の父親と、どういうところでどうやって知り合ってここに来ているのか全く判らないのです。原作では、ヨーコさんはショートカットで背が高い女性で、いきなりド~ンと来るという描かれ方です。ただし、手がかりとして、ドロップハンドルの自転車に乗っているといったようないくつかの決まり事は原作から引き継いでも良いなと思いました。
でも、原作もシナリオも同じですが、皆が勝手にイメージを膨らませるようなキャラクターなんですよ。自分の過去のどこかで、こういう大胆な人が周囲のどこかにいて、なんとなくそういうイメージが自分の中にもあるなというのがありました。もちろん、シナリオを元に考えながら作られていく部分もありますが、皆が寄り集まって一人一人が考えていく、その時に竹内君と僕がそこにいる人たちとコミュニケーションしていく中で、ひとつの役が出来上がっていったわけです。例えば、メイキャップと話し合い、どういうヘアスタイルにするとか、衣装はどんなものを着るとか、そういうことを考えていく中で、皆が結構勝手なことを言うわけです。当時の雑誌を見ながら「えぇ? 80年代ってこんなのを着ていたんだ!」とかね。今見ると鈍くさいけれど、でも、その時代にはその時代の素敵なファッションというのがあったりするわけじゃないですか? そういうことを含めて、この人は何を着るのか? とか、けっこうウェーヴのかかったチリチリした髪型、そういったものひとつひとつを決めていく、話し合うという中で、恐らく手探りをしながらヨーコさんという人物を作っていったのだと思いますよ。

『サイドカーに犬』というタイトル自体、とても文学的だと思いますが、映画でも、例えば、(成人した薫が)どの靴を履いていったらいいのか判らなくなったとか、(ヨーコさんの台詞の)「人は正直であろうとすると無口になる」とか、文学的な言葉が随所に見られます。この映画の大きな柱は薫とヨーコさんの関係ですが、こういった文学的な表現は支柱のような感覚だと思います。そのような意識はありますか?

 それはありましたね。ありましたというか、これは原作にあるのですが、ヨーコさんが読んでいる本が(太宰治の)『ヴィヨンの妻』だったりするわけです。随分ストレートだなと思うけど(笑)。あの世代で、あのような奔放豪快で大雑把な生き方をしている一方で、太宰を読んでいるというタイプの女の人を表現していくときに、そういう人が自分の表現として使う言葉には文学みたいなことに繋がる何かがあるのではないかなとは思っています。

原作ではヨーコさんは芥川龍之介も読んでいました。「どの靴を履いていったら判らない」といった文学的な言葉は原作にはほとんどありませんが、脚本の方たちと話し合って創られたのですか?

 そうです。こういうキャラクターだなということから、基本的に全てシナリオライターが考えました。これを文学的といっていいのかどうかは判らないけれど(笑)。非常に心の内面的なことを、逆に具体的に表現している言い方ですから、それが文学的ということになるのかもしれませんが。

そういった台詞の登場する間隔も意識されましたか? 連続してではなく、バランス良く配置されていましたが?

 これはね、繋がったらすごく嫌なものですよ。“気取るなよ!”みたいになっちゃうからね。ちょっと多いぐらいかなと思うけれど(笑)、なるべくギリギリのところに置いています。短い映画なので、まぁ、きわどいところですが。

缶コーラを飲むシーンで、そういった台詞の後にゲップを入れたのも、バランスの取り方ですか?

 そうですね。あのゲップはもうちょっと派手だったら良かったなと、見る度に後悔しています。でも、竹内結子がやれば皆が引くかも知れないね(笑)。

ラスト近く、松本花奈ちゃんが父親に向かって「ワンワン!」と吼えるシーンがとても象徴的でしたが、なぜ原作にはない、いろいろな意味に受け取ることが出来るこのシーンを入れたのですか?

 この父親と娘は、映画全体を見ても、この父親と娘が親密にやりとりするシーンはほとんどないのですが、あの場面だけ会話があるわけです。ただ、そのときの会話の手段が、言葉ではなく、彼女は頭突きで父親と会話するわけです。頭突きとお腹というのか、父親役の古田新太さんのお腹に頭で何度もぶつかり合って会話をする。そういう風に言葉ではないことで会話した頭突きが、言葉まではいかないけれど「ワンワン!」というもう少し何か言語に近いところで、“本当は言いたいことがいっぱいあるんだけれど”といった気持ちを「ワン」で表現しているんだろうという感じだと思います。その中身については、ずるいようだけれど皆がいろいろに考えられる。だから、あの親子が、文学的なことを言い合うように頭突きと「ワンワン!」のほうが良いなと思ったわけです。

『雪に願うこと』も家族の物語でしたが、『サイドカーに犬』はより家庭色が強いと思いました。そういった点で何か意識されたことはありましたか?

 やはり薫の映画なので、薫がどう思っているのかということが重要で、家族がどうあるべきかとか、この家族はどんなんだとか判定を下すものではないと思うんだよね。薫がこの家族をどう見ていたのかということを、監督として見極めたいなと思いましたね。ひとつは女の子なので、母親の影響は無視できない。母親は冒頭と最後しか出てこないわけですが、母親から受けた影響というのも、母親がいなくなったから全く忘れてしまってというのではなく、母親の影がずっとある中で、ヨーコさんとだんだん関係が深まっていくということにしておきたいなと考えていました。

母親はわりと遠い存在だったのではないかと思っていたのですが? 出て行く前の日も子供と向き合うのではなく、台所で掃除をしているという……。

 でも、そういう母親がいる子供の大変さってあるじゃない? いなくなっても、それは消えるものではないと思うんだよね。それは、今現在の薫にとってもずっと影響していることだと思うんですよ。だからこそ、母親と全く正反対な人が突然現れたことが意味を持つのだろうと思うんです。そういう意味では、家族というものを考えていたね。子供だからといって家族ということを強く意識したことではありません。

この映画で描かれているのは新しい人間関係、『サイドカーに犬』という人間関係だと思いましたが?

 人が人を見るときに、どうしても肩書きだとか、今度の竹内さんにしても「イメージと違いますね」とか、それまでのイメージとかいろいろなものがまずあって、それから逃れられないんだよね。コミュニケーションの中で、そういうものをなるべく捨てられることは、かなり大切なことだと思います。ヨーコさんの中には割とそういう資質があるというか、薫に対して子供だと言うことを割と早めに捨てて、1人の人間として付き合っている。そういうことを薫は感じたことが、結構大事だったのではないかなと思います。薫にとっては、大人の人だとか、お父さんのガールフレンドだとか、麦チョコを買ってくれる人だとか、そういうことが割と早めになくなって、ヨーコさんも薫を子供扱いしなかったことです。

ヨーコさん自身も、古田新太さんが演じた父親に、『サイドカーに犬』という関係を求めていますよね?

 まぁ、うまくいかなかったですけれど。そういう意味では、この映画では人との関係を求めるのに女の人のほうが真摯ですね。男は適当に、「まぁまぁ、その日がうまくいけばいいや」みたいな態度だね(笑)。そのことには、ヨーコさんも薫も気づいていたということですよ。

 一つひとつ言葉を選びながら、ゆっくりした口調で丁寧に質問に答える根岸監督。その語り口からは、この映画への思いが伝わってくる。かつて、竹内結子の活き活きした魅力をこれほどまでに引き出した作品はない。ふたつの才能が出逢い、誕生した『サイドカーに犬』は、見終わった後も心の中に暖かいものがずっと残っている、この夏真っ先に見て欲しい傑作だ。

(取材・文・写真:Kei Hirai)

公開表記

配給:ビターズ・エンド、CDC
2007年6月23日(土)よりシネスイッチ銀座・渋谷アミューズCQNにて公開、6月30日より全国ロードショー

(オフィシャル素材提供)

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