イベント・舞台挨拶

『レディ・チャタレー』シンポジウム

©Maia Films – Saga Films – Arte France Visa d’exploitation n゜110 132 – Depot legal 2006 Tous droids reserves

 20世紀を代表する英国作家の一人、D.H.ロレンスの「チャタレー夫人の恋人」。これまで世界中で映画化されてきた小説だが、本作『レディ・チャタレー』は、フランスの女流監督パスカル・フェランが新たな観点から映画化を試み、第32回セザール賞で5部門を受賞するなど、本国で高い評価を受けている。この度、『レディ・チャタレー』シンポジウムが開催され、パネリストとしてパスカル・フェラン監督、若尾文子(女優)、関口裕子(バラエティ ジャパン編集長)、武藤浩史(慶應義塾大学教授/日本ロレンス協会副会長)が登壇した。

テーマ:性表現のあり方について

武藤浩史:監督が原作のチャタレーから引用している部分があります。監督がチャタレーで一番大切だと言われていること。これを引用するところから始めたいと思います。
 「生はとても優しく、静かで、捕まえることができない。力づくでは手に入らない。力づくでものにしようとすれば、生は消えてしまう。生を捕まえようとしても、塵しか残らない。支配しようとしても、愚か者の引きつり笑いをする自分の姿が見えるだけ。
 生を欲するのなら、生に向かって、木の下にやすらぐ鹿の親子に近づくように、そっと、歩を進めなくては。身振りの荒さ、我意の乱暴な主張が少しでもあると、生は逃げていってしまい、また探さなくてはならなくなる。しかし、静かに、我意を捨て、深い本当の自己の充溢とともに他人に近づくことができる。人生で最上の繊細さを、触れあいを知ることができる。足が地面に触れ、指が木に、生き物に触れ、手と胸が触れ、体全体が体全体と触れる。そして、燃える愛の相互貫入。それこそが生。わたしたちは皆、触れることで生きている。」

武藤浩史:触れることの大切さ、そして同時に人に柔らかく、静かで、優しいもの。ここにロレンスのチャタレーの真髄がある。監督ご自身引用を持って示されている。まさしく『レディ・チャタレー』がこういう言葉を再現する映画でした。つまり、ロレンス、あるいは「チャタレー」の一般のイメージとして非常にマッチョな感じがしますけど、そうではなくて、非常に感受性が豊かな、女性らしい感性に溢れているそういう作品であるということがお分かりいただいたのではないかと思います。ロレンス研究者としてとても真髄をついた鋭い読みであって、しっかりした読みの上に監督の女性らしい感性を上乗せした素晴しい映画ではないかと思っています。
 今日の「性表現について」というのがシンポジウムのテーマですけれども、ここでの映画を観ても、単に性表現とは、性行為の表現というだけではなくて、映画の隅々まで染み渡る感性、その全てが水のせせらぎ、木々の葉の揺れ、その全てがセクシャル、そういう映画じゃないかと思いますが、「性表現」という言葉の意味を問い直したくなるようなそういう映画じゃないかと思います。
 パスカル・フェラン監督がインタビューで「性表現」の意味についてお話になっています。そこから、話を始めてみたいと思います。
 今日映画において「欲望」を描こうとする際に二つのやり方があるとおっしゃっています。一つは性表現をあるいは性行為を描かない。もう一つは「欲望」のモダンな描き方。性行為をきちんと描く。ただそれは、その人の他の部分とは切り離して描いてしまう。その人の愛情、考えを切り離して別のものとして、性行為を描いてしまう。監督はその二つのやり方に抵抗して、違うやり方で描いた。その点について詳しくお願いします。

パスカル・フェラン監督:私がこの本を読んだのは実はそんなに昔ではありません。この映画を撮る3年前に初めて読みました。驚いたのは、第二稿がある種の社会規範を打ち破るものであったということです。
 今、当時から80年経ったわけですけど、20世紀において私たちは性の解放やいろいろな分野で大きな進化を遂げました。
 一観客として映画を観たときに、もちろんいくつかの例外はありますけども、特に肉体と肉体が重なるシーンについて言うと、映画の中で見られるシーンは、ほとんど私自身の経験は何も語っていないと思います。それは私自身の経験にとどまらず、おそらく多くの人たちの経験も表せていないだろうと思うのです。
 プレスの中のインタビューも含めて今、「性の表現」について改めて考えてみました。「性の表現」には大きく三つあると思います。
 一つはクラシカルな表現方法。その行為を見せることなく、ただ行われるだろうと暗示させる。例えば、ベッドの中に入り、光が消える。性行為を暗示させることに留まるやり方。それは、実は大変残念だと思います。そうすることで、見ている人は一つのパターンの性行為だけが行われているのではないかというような感じがします。毎回毎回同じだからそれは見る必要がないのかもしれないと思えるでしょう。でも実は、性行為も人の数だけの形があるんじゃないでしょうか。性行為の中に含まれている活力やパワーを感じられないのは残念なことです。
 あと、二つあります。二つ目の表現とは全く極端な、ポルノ映画に見られるような例です。私自身はポルノ映画に対して反対しているわけではないのですが、ポルノ映画というのは女性がすごく乱暴に扱われ虐げられているような描き方が多いですね。女性が描いたポルノ映画というのもあり、そこには女性の視点があります。ですが、その中にも私自身の経験が全く反映されていない感じがします。ポルノ映画では個人の性行為というものが全く切り離されているのではないでしょうか。ポルノ映画はまた、男性の欲望を満たすための市場経済の産物になってしまっています。関わった人との関係性を断ち切って、男性の性的な喜びを満足させるためのものになっている。ポルノ映画は一つの明確な機能、いかに興奮させられるかで良い作品、悪い作品が決まるんじゃないでしょうか。
 三つ目は、近代における映画の中の性表現があります。例えば、『愛のコリーダ』はとても芸術的な作品だと思います。『愛のコリーダ』が映画史に登場してから、性の描き方も、その前と後に分けることができるくらいじゃないでしょうか。『愛のコリーダ』以降は「性」を「生」として描いている。カトリーヌ・ブレイヤの映画や『ピアニスト』は『愛のコリーダ』と同じようなパワーを持っている作品だと思います。それらは「死」に向かう性行為みたいなものを描いています。ただ、やはり私の経験は反映されていないと感じています。一観客としては、三つの表現のどれ一つをとっても自分の経験にはそぐわないのです。
 「性」を描く上で、肉体と肉体が重なり合うのを見せないのはあまりにもったいないと私は思います。肉体がどういうふうに重なり合い、何が生まれてくるのかという過程を描くことが望ましいと思うのです。例えば、初めての人とは最初はうまくいかないかもしれませんが、その時には体と体の重なり合いというだけでなく、そこには魂があるし、感情があるし、気分があるからです。セックスとはそういうふうに記憶されるものです。そういうところがポルノには描かれていない。
 私が性行為を描くに当たっては、行為の後の感情、また行為をしている状態でのさまざまな感情を表現したいのです。喜びや胸の高鳴り、そういうところが描かれていいと思います。それが例えば死に至るのは、望ましくない。私自身が望ましいと思う性の描写をしたのが、『レディ・チャタレー』でした。ロレンスのような性の描き方を今、映画でやりたいと思ったのです。

武藤浩史:1928年当時、「性は恥であること」という社会規範に反して、「レディ・チャタレー」が出版されました。今ではスタイルが大きな変化を遂げています。ですがやはり「性表現」というところでは今でも不満が残ります。
 監督は、三つの性表現があるとおっしゃいました。見せない、ポルノ的、愛のコリーダの系譜で、非常に芸術的には優れているんだけれども、死の欲動に貫かれている。3つとは違った描き方があるんじゃないかということで、「死」ではなく「生」に向かう。行為中の感情、行為後の感情、つまり心を描く、体と共に、心を描くということで、「レディ・チャタレー」という新しい性表現を試みた。それはすでにロレンスがチャタレーで試みていることで、それを原作としてこの映画で描いた、ということだと思います。
 ロレンス自身が、彼の思想として、純真であること、ナイーブであることが大切だということを描いています。その辺と若尾さんが映画に寄せて頂いたコメント「レディ・チャタレーが純真な少女に見える驚き、少ない科白で押え、結果、人の心がより鮮明になる優れた演出、画の美しさにも感動」が通じると思います。ぜひご感想をお聞かせ下さい。

若尾文子:一般的に通常のイメージは、チャタレーというと一般的にご主人との間に結びつきがなくて悩んでいる人妻が性に目覚めるという内容です。ヒロインを演じている女性が実に新鮮で、清純で純真な少女に見えたことで私はとても驚きました。考えている映画とは違うと。
 また、先ほど監督は触れることが大事だとおっしゃいました。確かに主人と彼女との間に触れることはありません。精神的な密接な関わりがあれば肉体的なものはいい。ご主人との間に全く交流がないように見えました。だから彼女は森にさまよって少女のようになるというのは自然のことに思えました。

パスカル・フェラン監督:彼女は夫が下半身不随になる前は彼と性行為があったともちろん思ういますけども、そうであっても彼女にとって、パーキンとの関係が初めてのような感覚を抱かせます。それはやっぱり彼女が持っている純真さであるというふうな、それは女優の器量だと思います。

関口裕子:観ていてすごく気になったのは、だからこそこの女優さんを選ばれたんだろうなと思った。
 演出家と女優、演じ手という関係性において今おっしゃられたような、「性=生」ということを表現しようと思ったときに、意図的に演出家は体現できる女優さんを選んだんだろうなと思いました。
 増村監督の作品を観てもやはりその意図を感じることが多い。若尾さんというキャラクターを持って、その役を演じた。演出家と女優さんとの関係性についてお二人にお聞きしたいのですが。

若尾文子:私は監督の演出によって、そういうふうに見えるのか、偶然マリナ・ハンズのキャラクターでああなったのか、ぜひパスカル監督にお聞きしたいと思っておりました。

パスカル・フェラン監督:私とマリナ・ハンズとの関係性はものすごく深いので、かいつまんでお話ししますね。
 マリナとは会ったことはありませんでした。個人的には知りませんでした。演技者としては知っていました。映画、テレビで演じていたので、あの世代では一番才能がある、何よりも個性的だし、演技に対して情熱がある。自分としては最も才能のある女優じゃないかと思います。
 今回初めてマリナと会った時に、彼女は果たしてどの作品のどの役で私が会いに来ているのか分かっていなくて、それで「レディ・チャタレー」の企画を話したら、とても驚いていました。「レディ・チャタレー」に対するイメージは、巷の紋切り型のイメージでした。私が彼女に細かく説明したら、感動して目に涙をためていました。彼女としては自分がそんな役をやるほど有名ではありませんし、演技にも自信がないと。でも私としてはできると思いましたし、観客としても見たいと思いました。この役を演じてもらうということは演じるために費やす時間と、そして、責任、私と同等の責任を持たされるのは演技者たちだと思いますので。
 私は監督として、俳優たちのスタイルをできるだけ良い状態でいかに引き出すかが重要だと思います。そのためには絶対的な信頼関係が必要です。監督と俳優とのつながりが大事だと思います。

若尾文子:増村監督とは、違いますね。私がどういう角度でどういうふうに撮ればこういう画が出来るとか判断して実行できるのが監督ですよね。その人の持っているもの、その時に1番適当なものを引き出せるのが監督。だからそういう意味で、監督の意図で彼女が少女に見えたということ、そういうふうにお撮りになったのかどうかということが気になりました。

関口裕子:「若尾さんの命が緊張するようなときが、若尾さんの内なるものを引き出す最良の方法」と増村監督がおっしゃっていました。演出家というのはそういう状況を作ることで自然と演じ手が流れていくということをされるのかなと思います。そういう中でエロティックかつ生きるための術を自分で選び取る女性を演じる動線を引かれたのかなと思いました。
若尾文子:私は増村監督とは初めから終わりまで、勝つか負けるかの戦いでした。指導されることはありませんでしたね。

武藤浩史:では、「レディ・チャタレー」の映画の中の具体的なところを監督に伺います。
 1つはチャタレーの原作からちょっと離れたところがあって、コンスタンスが近所の赤ちゃんを見にいって、その後、森に行くと猟番パーキンとすれ違う。そしてパーキンを追いかけて行き、パーキンの上に座って両方同時にオーガズムを迎えるというところ、あそこは原作よりも女性が積極的に描かれているんですけど、そこについての監督の意図を伺いたい。

パスカル・フェラン監督:本の中では割と乱暴な形でパーキンにコンスタンスが木まで連れて行かれ、あの関係自体がものすごくコンスタンスにとって、不幸な状態で、あそこでコンスタンスはパーキンと出会うことを予想していなかったし、木の下で性行為をすることさえ考えていませんでした。そのシーンを読んだ時、とても嫌な感じがしました。ここでコンスタンスは望んでいませんでしたし、乱暴であるということが納得できませんでした。説得力があるシーンとして、伝わって来ませんでした。ああいう状況で、オーガズムに達することができるのか?と思いました。とても嫌だったので、あのシーンをそのまま映画の中で描くのはやめました。
 今、ロレンス研究者の武藤さんが隣で原作と違うということを暴いてしまったので、映画と原作の距離感があることはあまり人には伝えていません。ロレンスには知られたくないですね。

武藤浩史:私は大変素晴しい判断だったと思いました。ロレンスという作家は非常にマッチョな男性優位主義的な本当にいやらしいところと、それから非常に女性的な感性があって、本当に女の心が分かる部分と、両方ある質の悪い奴で、あそこを変えたということはその中のロレンスの女性的な部分を強調しようと思ったというところを示していて監督の女性としての読みがあそこに出ていて素晴しいと思います。
 マリナ・ハンズの話を先ほどしましたが、私が大好きなのはパーキン。最後のシーンはパーキンの顔がかわいくなる。思わず抱きしめたくなるほどかわいい。パーキンが自分が今まで女っぽいと言われていて、他人とうまくやっていけなくて、悩んでいたことを告白します。それに対してコンスタンスがそうじゃないんだ、あなたのその女らしい感受性は素晴しい、むしろ長所だというふうに慰める。原作にもありますが、原作ではもっと目立ちません。映画は最後のセリフにあり、目立つようになり、すごく引き立ちます。監督の意図があるのではないかと思うんですが、どうでしょうか? そして、これは性の問題、女らしさ、男らしさに繋がってくると思います。

パスカル・フェラン監督:一緒に脚本を書いた脚本家と映画の最後はパーキンに捧げたいと思いました。これはもともとコンスタンスの物語。コンスタンスの目線で見たものや感覚が描かれています。でも最終的には男性に捧げる作品にしたいと思いました。パーキンは最初観られる対象や物語の中心に位置を変えます。だんだん進むうちに最後には彼にスポットを浴びせたい。それは、自分が女性だからかもしれない。
 コンスタンスの変化というのは非常に間近で見られる。でもこの変化というのも、パーキンとの出会いがあったからこそ。パーキンの変化はコンスタンスに比べると少し見えにくい。でも最後には本当にコンスタンスと同じように大きな変化があります。映画の中で男は女に体を捧げ、女は男に言葉を与えるという、そういうふうな関係を描きたい。だから、パーキンは最後に言葉でとうとうと語る。関係性を明確に描きました。

武藤浩史:「性表現」は人間の関係に関係している、単にプライベートな問題ではなくて、そこに社会的なメッセージ、現代に向けたメッセージがあるのでは?

パスカル・フェラン監督:特に映画として描いたメッセージ以外はありません。観客との感覚的な経験を共有できればと思っています。性的なものだけではなく、肉体的にも深い親密度まで変化をもたらすこと。お互いの人間関係が深まり、肉体関係も深まるという相互的な作用。体は切り離されなくて頭の中も全ての部分が人間関係を深めるということを感じてほしい。重要な意味になれば嬉しいです。

公開表記

 配給:ショウゲート
 11月3日(土)より、シネマライズほか全国順次ロードショー

(オフィシャル素材提供)

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