インタビュー

『長州ファイブ』五十嵐 匠監督 単独インタビュー

©2006「長州ファイブ」製作委員会

命を懸けてでも未知の世界に飛び込むという、“長州ファイブ”の生き様が僕にはまぶしかった

 外国を排斥しようと尊王攘夷の嵐が吹き荒れる幕末、命の危険を冒してまでイギリスに密航した5人の若者たちがいた。新しい時代を切り開きたいという熱い志を胸に秘めて先進技術を習得し、帰国後は、政治家あるいは技術者として日本の革新に指導的な役割を果たした彼らの青春と生き様を描いた『長州ファイブ』。『地雷を踏んだらサヨウナラ』『みすゞ』『アダン』など、実在の人物を撮り続けてきた五十嵐 匠監督に話を聞いた。

五十嵐 匠監督

 1958年、青森県出身。立教大学卒業後、岩波映画の四宮鉄男監督に師事し、テレビ「兼高かおる世界の旅」の製作担当として、各国を巡る。89年、郷土の詩人、高木恭造の方言詩集「まるめろ」をモチーフに映画『TSUGARU 津軽』を製作・監督。92年には夢を求めて渡って来たボートピープルの厳しい現実を描いた『ナンミン・ロード』を発表。以後、ベトナム戦争の報道カメラマンとしてピューリッツァー賞を受賞した沢田教一や、アンコールワットを撮ることに命を懸けたカメラマン一ノ瀬泰造、26歳で夭折した天才童謡詩人・金子みすずなど、実在の人物の生涯を撮り続け、数々の賞を受賞。
 96年『SAWADA』(毎日映画コンクール、キネマ旬報文化映画部門グランプリ受賞)、99年『地雷を踏んだらサヨウナラ』(バンコク映画祭観客賞受賞)、2002年『みすゞ』(文化庁優秀作品賞受賞)、03年『HAZAN』(ブルガリア国際映画賞グランプリ、同映画製作者協会連盟賞受賞)、05年『アダン』(米国・シラキュース国際映画祭審査員特別賞受賞)など。

プロフィールを拝見すると、「兼高かおる世界の旅」に参加されていたということですが、子どもの頃に大好きな番組でした。ああいう形で世界を見てこられたことが、監督にとっては映画作りの動機付けの一つとなっているのでしょうか。

 そうですね。とにかく、海外は好きなんですよ。少ないスタッフで行くのが好きで。兼高さんの番組でも3人位で行っていたんですよ。僕はアラスカに2ヵ月ほど行きました。海外で仕事をしながら日本を見るというのは、僕は兼高さんから教わった気がしますね。そうした視点が僕の映画作りのベースにはなっているかもしれません。

今作の主人公たちは実在の人物なわけですが、あのように熱い思いを抱いて国のために尽力した若者たちがいたということに、あらためて心打たれました。監督ご自身はどのような思いでこの映画を作られたのですか?

 今は皆、頭でっかちになってしまっているところがありますよね。パソコンがあってネットがあって、皆つながっていますから。何か知りたいことがあったらすぐに検索できてしまう。ただ、ネットであらゆることが検索できても、それが自分自身にとって実になる知識になっているかというと、どうも違う気がするんですね。図書館まで足を運んで苦労して調べるのとは全然違うと思うんですよ。
 でも、“長州ファイブ”の時代というのは、全く情報がありませんでしたから、自分で探し求めて行ったわけです。僕が好きなのはそこなんですよ。しかも、“ファイブ”が行ったのは敵国です。見つかったら死罪です。それでも、命を懸けてでも未知の世界に飛び込むという、彼らの生き様が僕にはまぶしかったので、ぜひとも映画にしてみたいと思ったんですね。駄目でもいいから一旦ぶつかってみるという行為が今はすごく少なくなってきていると思いますので、そういう意味でも特に、今の若い人たちにこの映画を観ていただきたいです。

確かに、ネットというのは何でも調べられるという幻想を抱かせられます。しかも、欲しい本でも簡単に手に入れられてしまうので、わざわざ外に探しに行かなくなりましたし。このお手軽さって何だろうと思いますよね。

 本当にネットで何でも見つかってしまうでしょう? でも、現実世界で寂しい人たちにはいいのかもしれない。つながっていられるから。幻想かもしれないけど、錯覚かもしれないけど、つながっているという気分になって助かることもあるでしょうね。ただ、メールだと、ざっくりした書き方しかできないので、行間で人を傷つけるときもあると思うんですよ。だから、使い方にもよるでしょうが、良い部分と負の部分があるものですね。

幕末は激動の時代で、興味は尽きませんが、どのようなきっかけでこの“長州ファイブ”のことをお知りになったのですか?

 ANAの機内誌で知りました。前作が『アダン』という作品で、奄美の田中一村という画家を描いていたものですから、奄美に通っていた頃なんですが、あるとき、プロデューサーが「こういうの、あるよ」って、その機内誌を見せてくれたんですよ。そこに“長州ファイブ”が載っていたんです。まず最初に、タイトルがカッコいいなと思いまして。それで、「ちょっと調べてみようか」ということになって調べ始めると、この5人がそれぞれキャラが立っていて実に面白かったんです。そんな中で、松田龍平くんが演じた山尾康三については資料が少なかったんですよ。そうすると、僕が創作することができる。でも他の人たちは資料が多いので、あまり創ることはできない。それに、山尾は冷静に他の仲間たちのことを見ていましたから、“あ、これは山尾を語り部として、この5人についての映画が出来るかもしれない”と思ったところから始まっているんです。だから、ANAの機内誌を見ていなかったら生まれなかった映画ですね。おかげさまで、この映画の宣伝も掲載してくださっていましたよ(笑)。

では、この5人の中で一番興味をそそられたのも山尾康三だったのですか?

 いや、一番冷静な語り部としての役割を与えられると思ったんです。要するに、彼は最後までイギリスに残った人物で、それでいて資料が少なかったので、僕に創作の余地がかなりあったわけです。そういう面で適していた人ですね。少ない資料を調べていて僕が山尾から受けた印象は、とても誠実で、いったん約束をすると何年経ってもそれを守る男、というものでした。非常に勤勉実直で、帰国後は偉くなりましたけど、スコットランドのグラスゴーで徒弟として働いていたときの鉋(かんな)と鋸(のこぎり)を生涯大事にしていたんですよ。つまり彼は、肉体労働をやりながら偉くなった人なんです。その当時の道具を大事にしているというのが、僕の中では結構ポイントが高くて、だからこの映画で、山尾の最後の登場シーンは鉋をかけているところにしようと思ったんですね。鉋をかけるというのは、これまでの日本の歴史を削っていくという意味付けが僕の中ではあったんです。

グラスゴーでの聾唖の女性との出会いは監督の創作なんですか?

 創作ですが、山尾はグラスゴーでそうした女性たちを見たはずなんですよ。造船所というのはものすごい騒音なので、ほとんどの人は耳をやられてしまいます。耳をやられた人たちというのは、手話で話すようになるんですね。そうした光景を、山尾は見ているはずだと思ったんです。そうすると、中に好みのタイプの女の子がいたら、仲良くなっても不思議ではありませんね。で、山尾は帰国後、筑波に聾唖学校を開きます。“どんな気持ちで学校を作ったんだろう”と考えたとき、きっとそうした人たちとの出会いがあったのだろうなと思ったわけです。

手話で語っている言葉が美しく詩的なことにとても心打たれました。ああした言葉は監督のイマジネーションだったんですか?

 まだそれほど英語が出来なかった山尾も、手話であれば言葉を介さずに、エミリーと感情を通じ合えるだろうということで取り入れてみましたが、僕も勉強になりましたね。いろいろな手話の本を読んでみましたが、「耳の奥で海が鳴っている」とか「踊りを感じている」とか、本当にそういう表現が出てくるんですよ。それはやはり、すごく新鮮でした。「私にあなたの体を聴かせて」という表現も、ある聾唖の方が実際におっしゃった言葉なんですよ。とても詩的ですね。

当時の日本人というのは、藩意識の方が強かったと思いますが、劇中の山尾のせりふにもありますように、彼らが“国家”という意識を獲得したのはやはり、外国を見たからだと思いますか?

 僕も8年ほど、アジアの国々を回ってきましたが、やっぱり海外に行くと日本が見えてくるじゃないですか。人間として成長できると思います。言い換えれば、海外に行くと、だんだん大人にさせてもらえるんですよね。僕たち日本人は所詮、子供として外国に行くんです。で、日本にいては絶対に分からなかったようなことをたくさん経験できますから、それにはものすごく影響を受けますし、視野も広がりますね。兼高さんと仕事をさせていただいたときもそうでした。海外でさまざまな経験をして帰国したときに、“自分はちょっと成長したな”と感じる瞬間が必ずあると思うんです。
 この映画にかかわる話をすると、例えば、遠藤謹助は後に、大阪造幣局の“桜の通り抜け”を発案しますよね。あれは、“パーク=公園”の発想なんですよ。つまり彼がロンドンに行ったときに、公園を見たことから生まれたアイデアなんだと思います。特別な人たちだけが入れるのではなくて、一般の人たちも入って楽しめる場所というのは、その当時にはなかったはずなんですよ。で、彼は帰国して、大阪造幣局長になったとき、“どうしてこれだけ美しい桜を、局員しか見られないんだ。一般の人たちにも開放しよう”と考えて、それを実行したわけですが、それはまさに“パーク”の発想なんです。彼らは海外で、こうした日本にはなかったものを体得してきているんです。井上勝の場合は強烈に鉄道に魅せられて、日本に何としても鉄道を通してみせると決心し、それと同時に小岩井農場を開いて、鉄道で壊した自然をそうした形で生かそうとしたわけです。
 つまり彼らは海外に出たことで、“公共”という意識が培われ、狭い藩意識から、日本という国全体を考えるという発想を獲得できたんですね。反面、個人主義に陥って汚れていった人もいたわけですが、だからこそ人間はさまざまで面白いですね。

また、未開国でなおかつ、自分たちを排斥しようとしている国からやって来たにもかかわらず、彼らを受け入れたイギリス人たちもすばらしいと思いました。

 本当に懐が深いですね。こういう人たちのおかげで、日本人は進化できたとも言えると思います。彼らがいなかったら、後の日本を作っていった“長州ファイブ”も存在しなかったでしょう。

今の日本はこのように外国人を寛容に受け入れてはいないですね。

 悲しいことですが、全く違っていますね。

監督はこれまで、実在した方たちを扱う映画を多く作られてきましたが、脚本を書かれる上で腐心される点は?

 とにかく、調べます。調べて嘘をつくんです(笑)。よく調べていないと嘘はつけないんですよ。で、観客が「これは違うよ」と言ったら、「それは調べていて、俺は分かっているんだ」と答えられないと難しいんです。ただ、僕も幕末は随分調べましたが、分からないことはたくさんありましたけどね。
 実在の人物を扱うと、どうしても突かれるところが出てきてしまいます。例えば、『地雷を踏んだらサヨウナラ』を観たある人から、「戦場カメラマンというのはああいう撮り方はしないよ。間違っている」って言われたんですよ。ファインダーをのぞいて撮るなんて、危なくてできないことなんだ、と。確かに、普通は胸のところに置いて撮るんですね。でも僕はシナリオを書く前に、戦場カメラマンやジャーナリストにたくさんインタビューしたんですよ。で、中には一ノ瀬泰造のようにファインダーをのぞいて撮るカメラマンもいたんです。僕はいろいろな方々に話を聞いた上で映画を作っているわけですよ。「それは違うよ」と言った人に限って、現地に行ったことがなかったりするんですよね。泰造は沢田教一さんに憧れていましたが、沢田さんが亡くなってから、カンボジアには117人のカメラマンが行っています。沢田さんは一番大変な時期に行っていたわけですが、彼のことを知っているという言う人にインタビューに行くと、実は噂しか聞いていなかったり……。こういう人たちはたくさんいますね。でも、どうしてもいろいろと言われてしまうんですよ。細かいことを突いてくる人たちが必ずいるんです。だから、ちゃんと調べていなくては辛いです。ただ、それが彼らにとっての一ノ瀬泰造だったりするわけですから、それを否定はできないんですけどね。

それぞれが持っているイメージはあるでしょうからね。

 そう、あるんですよ。だから、実在の人物を脚本に書くときには、よく調べた上で嘘をつきます。ただ、調べたままを映画にすると、ドキュメンタリー的になってしまうという難しさもあります。だけど必ず、“ここは嘘をつける”というところが出てくるんですよ。例えば、一ノ瀬泰造はアンコールワットまで行っていないんです。2キロ前で捕まって、プラダック村という所まで連れていかれ、2週間後に殺されました。でも僕は、そのとおりにはしたくなかったわけです。僕は彼をアンコールワットの前に立たせたかった。これは大嘘なんです。でも、どうしてもそうさせてもらいたかったんです。

真実に嘘をどのように紛れ込ませるかと判断するのは、勇気のいるところではないでしょうか。

 そうですね。今でもうれしく思い出すのは、泰造のお母さんが初めてこの映画をご覧になったときに、「スクリーンに泰ちゃんがいる」とおっしゃったんですよ。これは、どんな賞賛よりもうれしい言葉でした。でも確かに、実在の人物を映画で描くのは難しいですね。

それでも、ご興味は尽きないわけですよね?

 いや、そうじゃないのも作りたいんですよ。何でもいいんですよね、僕は(笑)。あんまり硬くは考えていなくて、ただ、自分のアンテナに素直に引っかかってきたものをやった結果がこうなっているだけでして。実は、実在の人物じゃない映画に参加して、監督を降りたことがあるんです。“劇の世界は大変だな”と勉強になりました。

監督が影響を受けられた映画監督や映画は?

 アラン・パーカーとマーティン・スコセッシが好きですね。アラン・パーカーが好きなのは、実在の人物や実際に起きた事件を題材に、きちんと娯楽にするじゃないですか。ああいう作り方が僕は好きですね。一番好きなのは『バーディ』ですが。あと、スコセッシは『タクシードライバー』が強烈でした。映画としては、ジョン・シュレシンジャーの『真夜中のカーボーイ』やジェリー・シャッツバーグの『スケアクロウ』のような作品が好きです。日本では深作欣二監督を尊敬しています。こういった映画を作る人たちが少なくなってきている気がしますね。若い監督たちは等身大のラブ・ストーリーや癒し系の映画が多くて、それはそれであってもいいんですが、大道というか、ドキドキワクワクさせられる映画が僕は観たいんですよね。でも、今はプロデューサーも若くなってきているので、企画が通らなかったりするんですよ。

最後に、これから映画をご覧になる若い方たちに向けて、メッセージをお願いいたします。

 『長州ファイブ』の監督の五十嵐 匠です。20代の5人の男たちがロンドンに密航して、日本を変えようと奮闘する話です。世の中が混沌としている今、命を懸けて国のために行動した男たちの生き様というものを映画で体感していただきたいと思います。映画をご覧になった後、自分の中で何か“揺れる”ものを感じて、行動してみたい衝動に駆られることがあるようでしたら、僕としては幸せです。ぜひご覧になってください。よろしくお願いいたします。

 寝食も惜しむほどの知識への欲求、何かを変えるため、身を賭して未知のものの中に飛び込んでいく気概と情熱、そんなものが希薄になっている今、この映画で描かれた若者たちの生き様を見て私も、のんべんだらりとたるんで日々を過ごしている自分自身が恥ずかしくなってしまった。しかも、この若者たち、後に日本を大きく変えていった人たちなのだ。あらかじめ情報を得ないで観に行った方がいい。最後に名前を見て、この大物たちにもあれほど苦労をした青春時代があったのだと知り、ビックリすること請け合いだ。
 ちなみに、私は子どもの頃、「兼高かおる世界の旅」が大好きだった。毎週日曜日の午前中、両親の間に挟まれて見た幸福な記憶がある。五十嵐監督がその番組にかかわっていらしたと知り、ちょっと感激して、開口一番にそのお話をさせていただけたのもうれしかった。監督は語り口は朴訥だが、その内側には“長州ファイブ”のように熱いものを抱えていらっしゃる方だということが、お話を伺っているうちにじんわりと伝わってきた。

(取材・文・写真:Maori Matsuura)

『長州ファイブ』作品紹介

 ペリー率いる黒船の浦賀来航から10年後。外国を打ち払おうとする攘夷の嵐が吹き荒れる幕末期の1863年、遥かなる異国、イギリスに命懸けで密航した若者たちがいた。粗末な服に身を包み、新しい時代を切り開く気概だけを胸にロンドンの地に立ったこの長州藩の5人の志士たちを、のちにイギリス人は敬意を込めて“長州ファイブ”と呼んだ――。

(2006年、日本、上映時間:119分)

キャスト&スタッフ

監督:五十嵐 匠
出演:松田龍平、山下徹大、北村有起哉、三浦アキフミ、前田倫良、原田大二郎、榎木孝明、寺島 進、泉谷しげる他

オフィシャル・サイト

http://www.chosyufive-movie.com/(外部サイト)

公開表記

配給:リベロ
2007年2月10日(土)よりシネマート六本木ほか全国順次ロードショー

(オフィシャル素材提供)

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